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新しい駒ヶ根のリーダーズ

2024年1月21日に投開票の駒ヶ根市長選。友人が立候補したことをきっかけに少し考えたので、選挙や政治ににまつわることを、つらつらと書いてみました。
二つ目のテキストの後半は、5年前に自身が書いたもののほぼコピペです。この5年間、政治に対する考えは変わっていないようです。

写真が出回っちゃったので、もう隠し通せません。はい、駒ヶ根市長選、私の一票は剛也に行きます。理由?単純明快、彼は私の友人だからです。

ただ、アンビバレントな思いは友情にはつきもの。実際、剛也と私の間には、様々な面で大きな隔たりがあります。

剛也はコンサバだけれど、私はリベラル。
彼は大衆主義で、ぼくはエリート主義。
アイツはジュビロ、オレはエスパルス。
要するに、私たちは正反対。でも、そういう違いを越えても、剛也に投票します。なぜか?そう、友人だからです。

彼が当選しようとも、私は彼を「市長」と呼ぶつもりはありません。
敬意に欠けると思われるでしょうか?
そうではありません。地位や役職とは関係なく、もうずっと以前から、私は4つ年下の剛也をリスペクトしてきました。敬意を込めて、「剛也」と呼んできたのです。

ただ、呼び方どうこう以前の問題として、もし当選すれば、私が彼に呼びかける機会は、ほぼなくなるのでしょう。公務に忙殺されることでしょうし、今以上に多くの人々に囲まれる日々が始まるはずです。それを少し寂しいと感じる自分もいますが、それが剛也にとって、そして駒ヶ根市にとって良いことであるなら、私は心からそれを願います。そして、彼の新たな旅を遠くから見守りたいと考えています。

しかし、万が一、剛也が選挙に勝てなかったとしても、彼の周りにいた政治的な人々が消え去ってしまったとしても、そんなとき、私は彼の元を訪れるでしょう。そして、変わらず彼を「剛也」と呼びます。いや、その時はちょっと呼び方を変えようか。「市長候補」って。

(2024/01/19)


前回、私は剛也への投票を告白しました。友情からの一票です。しかし、友情は友情、現実は現実。私は選挙が嫌いです。

なぜ嫌いか?その理由の一つは、選挙の際には必ず登場する、ある種の言説です。ある者は中立の仮面をかぶりつつ、実際には党派性に基づいて一方を非難し、もう一方を持ち上げる。そして最後には、「よく考えて選ぼう」という決まり文句。この茶番に、私は気分が悪くなります。

しかし、この種の個人的な投稿から距離を置くことは可能です。耐え難いのは報道。今回の市長選、長野日報は剛也推しでした。これが剛也陣営の働きかけによるものなのか、それとも、新聞記者だった経歴を持つ対立候補に対する長野日報社のルサンチマンなのか、その真相は私にはわかりません。しかし、その報道を読むたびに、私は、私自身も剛也推しであるにもかかわらず、不愉快な気持ちになったのです。

具体的には、1月17日の記事では、遊説の模様を伝える中で、剛也には「家から飛び出してくる支持者」が描かれる一方で、対立候補には「家の軒先や車内から手を振る有権者」という描写がされています。翌18日の記事では、出口調査の結果を報じつつ、剛也には具体的な政党名を避ける一方で、対立候補に対しては「立憲民主や共産の支持層」と特定の政党名を出しています。地方選挙で政党色を出すことは通常マイナスとされていているのですから、これらは単なる情報提供ではなく、姑息なネガティブキャンペーンとの誹りは免れないように思います。

こんな記事を読んで、本当に投票先を決める人がいるのでしょうか?むしろ逆効果でしょう。もし長野日報に剛也を応援してくれる気持ちがあったのなら、こんなナメた記事ではなく、旗幟を鮮明にした上で、もっとストレートに、熱く応援する記事を書いて欲しかった。中立を装いながら片方のみを持ち上げる、まるでステルスマーケティングのようなやり方は、受け入れられません。

さて、茶番の演者やイエロージャーナリズムの存在は、私の選挙嫌いの理由の一つではありますが、それが最大の理由というわけでもありません。
選挙、というよりも、政治に対する諦念が最大の理由です。

日本も50年前までは政治の時代でした。
その頃は、社会全体で共有する大きな問題がいくつか。同時に、イデオロギー対立。しかし、イデオロギー対立と言っても、いまになって振り返ってみれば、それは単なる主導権争いに過ぎませんでした。誰が主導権を握ろうとも、もちろん主導権を握った者によってアプローチは異なったのでしょうが、取り組まなければならない問題に違いはなかった。

政治の時代、政治家は建築家にたとえられました。設計図を描き、家を建てていくことが仕事だ、と。
その喩えで言うのなら、高度成長期に家は建ち、バブル時代にリフォームを終えたと言えます。いま必要なのは、ローンの返済であり、庭の草むしりであり、家の前のドブさらい。
残念ながら、成熟した社会の政治に、クリエイティブな仕事は残されていません。

政治に残された唯一の仕事は、誰かの不幸を取り除くこと。
それは、派手なイベントをぶち上げることではないはずです。オリンピックを開催しても、結局、何の起爆剤にもならなかったのですから。

現時点では、選挙の結果は分かりません。剛也が市長になるにしろ対立候補が2期目を務めるにしろ、新しい市長には、ただひたすら、リアルに困っている人に手を差し延べて欲しいなと思っています。

(2024/01/21)

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