『共感』って何だろう? 〜言葉って、行動だ〜

どうも。今日、昨日と暑いですね。毎日投稿4日目のリョウです。今日もnote書くよ。

ある本を読んでいて、ふと自分が小学生だった頃を思い出しました。  「あなたって、優しくないんだね」と、そう先生に言われた時のことです。

今だからこう書けるみたいなところはあるんですが、その時たしかに自分は思いやりというものをあまり持っていなかったというか、単純にやりたいことに夢中でそこまで手が回っていなかったというか、そんな子どもだったんですけど、当時はショックで放心した後に「言われてみれば、たしかにそうだよなあ」と冷静になって考え、何が自分に足りていないのか振り返ったりしていました。今も考え中です。

自分はもともと共感することが難しいタチの人間なわけですが、人と関わっていく中で、だんだんとそういった『人のこころ』あるいは『共感』について興味を示すようになっていきました。これはその最初のきっかけでした。

『共感』について、本に書いてあったことと、自分の経験とを照らし合わせて、今のところ最もしっくりきている解釈は『相手になりきること』です。

一番簡単なのは、話すスピードを寄せたり、語尾を丸めたり尖らせたりと、相手の話し方を真似することです。ほんのちょっとだけね。

遊びだと思ってちまちまやっているうちに、結構いろんな人とスムーズに話せるようになったんですよねこれが。相手はどう思っているかは分からないんですけど、自分にしては結構な進歩でした。

ついつい共感を得たり仲良くなるために「自分の言葉で〜!」とか「リアクションで〜!」という意図が先行しがちな人をこれまでけっこう見てきて、自分もまだ時々しちゃうんですけど、結局大事なのは『相手を理解すること』なんだと思います。

『共感』という言葉があるからついついそれを定義しようと、『共感』という言葉に合致するような行動を探しがちですけど、本来は逆じゃないですか。

行動が生まれてから、言葉が生まれる。

人間は進化していません。今でも『言葉』より『行動』の働きかける力は強いと思っています。言葉はあくまでツールだと思っています。

だから『言葉の裏を読む』というのは別に普通なんじゃないかな、と思います。言葉が主体なのではなく、言葉の裏に潜む『行動』が主体だから。  だからそれを知ろうとしているあなたは、すごいと思います。

冒頭の「優しくないんだね」という言葉も本当は逆だと思っていて、その人がその子の「優しい」を発見するのではなく、「自分」が「優しい」という行動になって、その子に「優しい」を発見してもらうしかないんだと思うんです。真似される人になるしかないんだと思います。

真似される人になるためには、自分が真似していくしかないんだと思います。言葉でさえ誰かの真似なんだから、その下地はできているハズなんです。そうして、だんだんと人の心を分かっていくしかないんだと思います。だから、分からないのは当然であるとさえ最近は思っています。人は「分かろう」という積み重ねしかできないんだと思います。

自分もどこかで言葉に囚われています。言葉で生きていくと、いずれ『あの時の小学校の先生のような人間』になってしまうんだと思います。そんな自分になってしまうことが怖いんです。そんな自分が、いつ子どもを『言葉人間』にしてしまうか分からないから、怖いんです。

そんな人たちが、周りにたくさんいるから、怖いんです。でも今は怖くありません。だからこうして少しずつ、自分を表す練習を始めました。なるべく自分のこころ、行動に沿った活動をしようと思いました。

といったところで、今日は『共感』について考えてみました。それではまた明日。

大丈夫、きっとうまくいくよ。


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