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4.それから

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日本と清という2大プレーヤーが、鎮めていた海が、再び西洋によって荒れるようになります。最初はオホーツク海のロシア、そして太平洋からイギリス、アメリカと。18世紀からペリーが日本へ… もっと読む
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記事一覧

4-8.ロシア船の来航(ラクスマン)

舞台は蝦夷地 1792年、ロシアからアダム・ラクスマンの乗ったエカテリーナ号が根室沖に姿を現…

Ryo
2か月前
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4-13.国内情報の流出

シーボルト赴任(1823) 1823年には、長崎に商館付き医師としてシーボルトが赴任してきました…

Ryo
2か月前
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4-12.干上がる日本商館

オランダを駆逐し出すイギリス この頃の長崎の日本商館について説明しておきます。対ナポレオ…

Ryo
2か月前
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4-11.異国船対応の転換

イギリス船フェートン号 北でロシアへ向けた緊張が高まっていた頃、1808年にオランダ国旗を掲…

Ryo
2か月前
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4-10.朝鮮幽囚記(余話として)

朝鮮に漂着したオランダ人 1653年7月に台湾から長崎へ向けて出港したオランダ船が、途中嵐に…

Ryo
2か月前
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4-9.ロシア船の来航その2

少し長文になります。 今度は長崎に 1804年9月、2隻の船を率いたロシアの使節ニコライ・レザ…

Ryo
2か月前

4-7.新たな恐怖

異国船への警戒(これまで) 日本に戻ります。17世紀後半から、日本と清の支配、統制が及んだ海域は、波のたたない穏やかな状態であったことは前述しました(「4-1.漂流者の運命を分けた海」。幕府は、「遠見番所」の設置を全国の諸藩に命じ、主にはポルトガル船の来航と、潜入してくる宣教師を警戒していました。とはいえ、そのころのポルトガルは、アジアの海において以前のような力を持っていませんでしたので、実際は漂流してくる異国船をどう扱うかという問題でした。オランダ船だけは異国船の中で区別

4-6.オランダの苦悩その2

支配した土地で栽培させた作物は、価格も数量も全て会社の方針にしたがって一方的に決められ、…

Ryo
3か月前
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4-5.オランダの苦悩

オランダ東インド会社の変化 オランダ東インド会社は苦しい局面に陥ります。幕府の貿易制限に…

Ryo
3か月前

4-4.江戸時代は貧しかったのか?

引き続き、余話としてお読みください。 年貢負担率 多くの人は、江戸時代=重い年貢に喘ぐ貧…

Ryo
3か月前

4-3.行き交うモノの変化

銀の減少 この世紀(18世紀)になると日本から出ていくモノに大きな変化が現れます。原因は日…

Ryo
3か月前
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4-2.余話として(東シナ海)

視認できない目的地への航海 古来、遣隋使や遣唐使が渡った海は東シナ海でした。長崎にやって…

Ryo
3か月前
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4-1.漂流者の運命を分けた海

東シナ海 18世紀になると、海を行き交う船の船員は、運悪く漂流してどこに流れ着くかによって…

Ryo
3か月前
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