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3-1.出会いの結末、破局へ

追放される外国人

キリシタンの取締りは、激しさを増していきます。1624年にはスペイン人が完全追放され、1635年には日本人の自由な海外渡航の完全禁止、出国、帰国いずれも死罪となることが発布されました。その翌年にはポルトガル人の子孫は追放、残留または戻ってきたものは死罪と加えられます。外国船の入港も長崎、平戸の2港のみに制限されました。一切の外国人、そして外国から帰国した日本人ですらも、国内の人間と接触することを禁じたのです。幕府が、いわば明確な国家意思を発動させたといっていいでしょう。幕府が恐れたのは、自らが打ち立てた秩序とは異質の秩序(神の前に平等)下にいる(と幕府は考えた)人々の群れ、しかもその背後にはポルトガル、スペインの勢力がいると考えたからです。彼らが結託すれば、再び戦乱の世に戻るかもしれない、そのリスクを事前に摘み取ろうとしたわけです。

1637島原の乱

1637年、幕府を戦慄させる「島原の乱」が起こります。島原(長崎県)と天草(熊本県)でほぼ同時に起こった農民等の軍勢が、最終的に島原城に結集して幕府軍と戦ったものです。両地方は、かつてはともにキリシタン大名の領地(前者は有馬晴信、後者は小西行長)だったため、多くの信者がいました。農民側の総大将はよく知られた益田四郎(天草四郎)で、他に指導者としてかつての支配層であった、有馬、小西の旧臣が多数いました。籠城した集団は、必ずしも信者だけではなかったことも知られています。信者と非信者の混成集団であったわけです。彼らが蜂起した原因は、圧政と禁教への不満の両方でした。

彼らが籠城した原城は、かつてポルトガル船が多く寄港した口之津(くちのつ、現長崎県南島原市)を守るための城で、完成した当時、ポルトガル人宣教師によって祝別(聖とするための祈り)を受けている特別な場所です。籠城した時点では既に廃城となっていましたが、そこに3万人を超える人間が籠城したのです。一方、幕府はほぼ九州全域にわたる大名を総動員し、その数は13万人ともいわれています。しかし、容易に城は落ちません。

そこで幕府は、オランダ商館長にオランダ船に大砲を積み込んで島原に回航させ、海からも陸からも砲撃を加えました。「日本には立派な武士が大勢いるのに、なぜオランダ人の援助を求めるのか」と抗議の矢文が籠城側から飛んできたらしいです。オランダ側は、幕府の信用を勝ち取るのはこの時とばかりに、商館長自らが戦場に赴いて大砲を撃ったといいます(出所:「オランダ東インド会社/永積昭」P127)。

しかし、このオランダの行為は、「宗派は違うとはいえ、同じキリスト教徒を裏切ってまで金儲けがしたいのか」と、他の西洋諸国から散々非難を浴びました(出所:「オランダ東インド会社/永積昭」P128)。ただ、このことが、オランダが西洋諸国の中で唯一の貿易相手としての地位を築くことができた一因でしょう。

籠城者の全滅とその後

籠城者のほぼ全滅という結末で、この乱は幕を閉じます。勃発から4ヶ月後です。この後、1639年に幕府はポルトガル人を国内から完全追放します。すでに外国船の入港は、平戸、長崎に制限していましたが、ポルトガル船は入港できたため、密航してくる宣教師は当然いたでしょう。それを完全に禁止、追放という最終手段となったわけです。数万人のキリシタンが4ヶ月も幕府相手に戦ったということ、そして将来、再び信者が結集し、それを助けるかもしれないポルトガルがやってくるという恐れが、それを実行させたといっていいと思います。

しかしながら、幕府にとって厄介な宣教師を運んでくるとはいえ、商売相手としてだけなら、ポルトガルはなくてはならない存在でした。中国産の生糸、絹製品を運んできていたからです。ポルトガルを締め出したあと、それをどう手当するのかを確認しなければなりません。そのあとを継いだのがオランダ(東インド会社)でした。オランダがポルトガルの代わりを十分に務められるという確信を得たのちにポルトガル人の完全追放を行ったわけです。

驚くことに、ポルトガル船には多くの日本の商人や、幕府の役人なども出資していたといいます。島原の乱鎮圧の年、1638年の日付で貸付の証文が残っています。ポルトガル人の完全追放は、乱鎮圧から数ヶ月経ったのちでしたが、その間、いわゆる債権者である彼らの陳情があったことは容易に想像されます。当然のことながら、すべて不良債権となりました(出所:「アジア交易圏と日本工業化/浜下武・川勝平太編/17世紀の東アジア貿易/永積洋子」P108)。

ほくそ笑むオランダ

日本がスペインに続いてポルトガルも追い出したという知らせを聞いて、バタヴィア(現ジャカルタ)のオランダの東インド総督は、感謝と祝賀のパーティーを開催したほどです(出所:「オランダ東インド会社/永積昭」P129)。日本との貿易を独占できることを無邪気に喜んだわけです。

ちなみに、イギリス東インド会社の平戸の商館は1623年に閉鎖されている。オランダとの競争に負け、商売がうまくいかなかったからである。イギリスは中国に拠点を持てなかったため、日本が欲しがる中国産品を安定的に供給できなかった。

西洋人との出会いから約100年。彼らと対等に付き合ってきたこの国でしたが、その付き合い方を大きく変える時期になりました。

続く


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