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4-1.漂流者の運命を分けた海

東シナ海

18世紀になると、海を行き交う船の船員は、運悪く漂流してどこに流れ着くかによって、その後の運命が大きく異なるようになりました。東シナ海の清や琉球、朝鮮に流れ着いた場合には、現地で保護され、日本にやってくる商船で帰国できたのに対し、南シナ海の島々(東南アジア)に流れ着いた場合は、現地で殺害、もしくは捕えられて奴隷として売られていました。15〜17世紀までは、その両海は混然と一体化していました。しかし、この世紀には、明確に差がでるようになったのです。

理由はおわかりだと思いますが、東シナ海は清と日本という2大プレーヤーによる、海の支配が完成していたからです。ここでいう「支配」は、陸の強力な政権が、力を及ぼしていたということです。繰り返しになりますが、日清間で正式な国交(外交関係)はありません。「民」の貿易だけの関係でこのような秩序を完成させていたのです。

これは、清と日本の間だけではなく、清・日本・琉球・朝鮮の4カ国の間で相互におこなわれており、直接的な通交ルートをもたない琉球と朝鮮間、さらにはベトナムとの間でさえも、それぞれと関係を持つ清の仲介によって、漂流民の相互送還が実施されていました(出所:「東アジア/羽田」P189)。

※帰国した漂流民は、長崎で奉行所による氏名・本籍地・宗旨のチェックや踏み絵、漂流の次第や、逗留中の様子などの取り調べを受けたのち、問題のない場合はその出身地へ戻って行った(出所:「東アジア/羽田」P188)。

南シナ海

一方の南シナ海は、島々に多くの王朝が存在して、そのいずれも政治的な力を海まで及ぼすことはできませんでした。これが、漂流民の運命を分けた原因となったのです。日本が清とオランダ船の入港を長崎のみに絞ったのと同様、清も外国船の入港を4つの港に制限し(のちに広東1港のみとなる)、外国商人用の居住区を設定して自由に動き回ることを制限したのは、長崎における出島と非常に似ています。また、1706年にキリスト教宣教師を追放し、1723年にはキリスト教を禁教とします。これも日本と同様です。

南シナ海では誰にも制限されることなく、自由に動き回れた人、モノであっても、東シナ海では、日本と清が形づくったルールに従わざるを得なかったのです。

※漂流民の扱い

「3-1.出会いの結末、破局」で、わたしは以下のように書きました。

「1635年には日本人の自由な海外渡航の完全禁止、出国、帰国いずれも死罪となることが発布されました」

これは、「自由な」という言葉がポイントです。

予期せぬ海難により他国に漂着した場合は、『国家の設定したルールを犯した』とはみなされず、各国において保護・救助の対象とされるようになった。このためこの時期、東シナ海周縁の諸国間で外国人漂流民の相互送還体制が形成されたことは、特筆すべき現象である」(「海からみた歴史/羽田正編」P246)

これが実相です。日本、清、朝鮮、琉球ではこの時代にそれができていたというのは驚きです。例えば清朝では1737年に「すべての外国人漂流民は撫恤ぶじゅつ(いつくしみあわれむこと)し、衣食を与えて船を修理し帰国させよ」という、国家としての統一指針がだされています(出所:同書P247)。朝鮮では、日本人の漂着に対処するため、日本語通訳まで用意されていました(出所:同書P248)。

続く


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