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7-10.噂が現実に

浦賀

神奈川県横須賀市の東部に位置する浦賀。ここは江戸湾の入り口にあたり、江戸時代には多くの廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ねていた場所です。幕府は、江戸湾に入る船の臨検を行う場所として、1720年からここに浦賀奉行所を構えていました。そこには、トップである奉行2名(1名は在浦賀、もう1名は江戸)、その下に組頭が2名、与力が28人、その下の同心が百人でした。1847年より、江戸湾防備を命じられた藩は、三浦半島側に川越藩、彦根藩、対岸の房総半島は会津藩、忍藩です。浦賀奉行所は幕府直轄なので、指揮命令系統はありますが、奉行所からは各藩に対して命令権がありませんでした。

浦賀奉行所には常時2名のオランダ通詞と、1名の唐通詞が常勤していました。これは、1847年アメリカのビッドル艦隊来航以後の処置でした。それまでは、異国船来航の知らせがあるたびに江戸から浦賀までやってきていたのです。江戸のオランダ通詞たちは長崎から江戸に赴任してきていたのです。今で言えば単身赴任です。そうして、江戸湾に異国船が再びやってくることに備えていたのです。また、異国船への対応の際には、陣羽織を着用せず、臨検の際には少人数で乗船するなど、トラブル防止のためにかなり気を使った方針を打ち出していました。

1853年7月8日

ペリー艦隊は、1853年7月8日に浦賀沖に姿を現しました。午後5時頃だったようです。江戸湾が最も狭くなる観音崎〜富津間のすぐ沖あいです。艦の投錨前から、多数の番船(警戒船)が艦隊を包囲するため取り囲みます。何名かが乗船しようと試みますが、ことごとく乗組員に阻止されます。ペリーは、旗艦(サスケハナ)以外への乗船を一切拒否するよう厳命していたのです。番船は、包囲が長引くことに備えて、水、食料、布団までを積み込んでいました。中の1隻が、巻いた紙を高く上げながらサスケハナに近づきました。そこには、浦賀奉行所の与力中島三郎助と通訳堀達之助の2名が乗っていました。サスケハナではその受け取りが拒否されますが、ミシシッピではそれを受け取りました。それは浦賀奉行所が事前に用意していたもので、そこにはフランス語で「ここに停泊するな」「ただちに出港すべし」と書かれていました。

最初の接触

2人は再度サスケハナに近づき、船上の乗組員と乗せろ、乗せないを身振り手振りで押し問答となります。そこへペリーの命令で、2人の通訳、ウイリアムズとオットマンが出てきて、「提督は最高位の役人以外とは誰とも会わない。岸に戻れ」と船上から言います。

これは何語で言われたのでしょうか。「ペリー提督日本遠征記(以降「遠征記」と記す)」から推測すれば、おそらくウイリアムズの日本語だったと思います。それを受けて若干の日本語での応酬が続き、そのうち、堀が日本語での交渉が難しいとわかり、「I can speak Dutch」と言うのです(遠征記には「流暢な英語で」と書かれています)。堀の英語にペリーの通訳たちは驚いたと思います。すぐに英語での会話となりますが、堀の英語はその一言で尽きてしまったようで、以降オランダ語通訳のオットマンとオランダ語での会話となりました。

噂は本当だった

押し問答の末に2人は乗船を許可されます。中島は「この船はアメリカから来たのか」と尋ね、その回答には予期していた様子だったとあります。幕府、並びに奉行が秘密にしていたアメリカ船の来航情報を、彼も耳にしていたのです。中島は自らを「副奉行」と称します。英語では「Vise Governor(=副総督)」と訳されました。ペリーは副官に、以下のことを当局へ伝えるよう命じます。それは、

「提督はアメリカから和親修好の使節として派遣され、アメリカ合衆国大統領から江戸の皇帝(将軍)あての親書を持ってきている。その親書の写しを受け取り、それをもって正式に原文を奉呈する日を指定してもらいたい。そのため、それに相応しい人間を船に派遣してほしい。」

という内容でした。これに対し、中島は

「日本の国法では外交の場所は長崎と決まっているから長崎へ行かなければならない」と回答します。それに対し、「江戸に近いからここに来ている。長崎へは行かない。」と返され、続けて「親善の使節に対して、多くの船で取り囲むのは極めて無礼。囲いを解かなければ武力をもって追い払う」と脅されました。

取り囲んだ番船はただちに囲みを解き、離れて行きます。ペリーの最初の恫喝が効いたわけです。中島、堀の2名は「国書の受理については、回答する権威は持たない。明日我らの上司が来て回答するだろう」と言い、下船しました。これが第1回目の接触でした。

続く


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