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7-2.余話として(ヨハン・ヨゼフ・ホフマン)

オランダの貢献

前回、「7-1.ペリーの登場」でも述べましたが、再びシーボルトの名前が出てきました。彼は、当時唯一の日本通として広く名前を知られていました。これからも何度か彼を取り上げていきますが、一八五三年のペリー来航から一八五八年まで(元号でいえば嘉永から安政)の間は、オランダの存在は、きわめて好意的な助言者として日本の歴史に大きくかかわってきます。とはいえ、ほとんど歴史では習うことはありません。追い追いそれを述べていきます。

ヨハン・ヨゼフ・ホフマン

さて、シーボルトは、高度な日本語のレベルに習熟していたわけではなく、「日本(Nippon)」を著すにあたってはヨハン・ヨゼフ・ホフマンに日本語資料の翻訳を一任していました。ホフマンは、大学でギリシア・ラテンの古典文学や言語学に関心を寄せていたとはいえ、シーボルトと偶然出会って、日本語を一から学び始めるまでは、歌劇団に所属して歌手として生計をたてていた25歳の青年だったといいます。

ホフマンは、シーボルトが連れてきていた中国人から、まずは中国語を学び、そして中国語を介して日本語を学んだらしいです。彼は1846年にオランダ政府の日本語翻訳官に任命され、次いで1855年にライデン大学の正教授として、ヨーロッパで初めての日本語研究・教育の専門職についた。彼が日本語を体系的にまとめた「日本文典」(1867)は、英語版、ドイツ語版も次々に出版され、ヨーロッパにおける日本語の大家となりました。「4-3.行き交うモノの変化」でのべた「養蚕秘録」をフランス語に翻訳したのはホフマンです)。のちにヨーロッパへ多数訪れることになる幕府の使節団の通訳も務めています。

シーボルトと偶然出会ったことが、その後のホフマンの人生を決めたことになります。

なお、ホフマン同様に日本を一度も訪れたこともなく、高度な日本語をマスターしていくヨーロッパ人は、その後多数出現します。オーストリアの帝国図書館に、シーボルトの次男から寄贈された日本関係の書籍から日本語を学んだアウグスト・プフィッツマイヤーや、フランスのレオン・ド・ロニー、イタリアのアンティラモ・セヴェリーニなどです。(出所:「日本語がしたたかで奥が深い/河治由佳」P79〜90)

シーボルトの子孫

よく知られたことですが、彼には楠本滝という日本人女性の妻、そして2人の間に生まれた「イネ」という娘がいました。娘「イネ」は日本初の産科医としても名を残しています。当初、イネに医学を教えたのは、シーボルトの教え子たちです。シーボルトは、帰国後にも結婚しこどもをもうけているので、彼の血は日本とヨーロッパにも残っていることになります。

※シーボルトはドイツ人だった。オランダの官職を辞したのちには故郷ドイツで暮らし、彼の墓はミュンヘンにある。


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