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”諦める”の捉え方の変化

最近ちょっとずつ考え方が変わってきたものがある。
いや、正しく言えば考え方はきっとずっと変わっていなかったんだろうけど、捉え方が変わってきたものとでも言うのだろうか。

それがタイトルにもある通り、「諦める」というものに対して。

皆さんは「諦める」に対してどういった捉え方を持っているだろうか?

かつての自分は、諦めるということの意味がちょっとよくわからなかった。よく面接とかで、「挫折の経験はありますか?」みたいなことを聞かれると思う。私も漏れなく聞かれた。だけど自分にとってこの「挫折」の意味があんまりよくわからなかった。

「いや、上手くいかなかったら上手くいくまで続ければいいんじゃないの?」

多少拡大解釈しているが、概ねこの考え方だった。よっぽどそれまで何とかやってきたというか、いろんなものに恵まれてきたんだと思う。それでいて自分の力じゃ変えられないものに対しては、ハナから考えることをやめていて距離を置いていたのだろう。だから「諦める」という感覚がよくわからなかった。

つまり、諦めるというのは、「上手くいかないから途中でやめる」的な捉え方をしていた。

でも最近いろんなことを経験してきてちょっとずつ捉え方が変わってきた。

どう変わったか。それは、

「諦める」って諦めたくて諦めてるんじゃないんだな、と。
「諦める」って”寂しい”ことなんじゃないかな、と。

上手い表現にしようとかそんなことは1ミリも思っておらず、本当に心の底から思っていることをこうやって今言葉にしている。だからもしかしたらこの捉え方は自分だけかもしれない。ただ、少なくとも今の自分としての捉え方は間違いなくこれだ。

でもこれじゃあ抽象的過ぎ。”寂しい”って何なのか。
それ似たようなことを先ほどXにてポストした。

自分のこれまでの感覚値的に、上手くいかなず、壁にぶち当たることに関して多少の落ち込みはあれどそこまでダメージは受けない気がしている。むしろ「じゃあどうすれば上手くいくか」「負けたまま終わるのは嫌だ」となるタイプだと思っている。

そんな自分でも、ふと力が抜ける感覚になってしまうことがある。それがポストにもあるように、「策が尽きた時」だ。

「次あれを試そう」「ちょっと違う視点から行くか」そんな風に考えられている時はワクワクしている。でも、「うわ、もう策ないな」「何もできないな」となってしまうと一気に目の前が真っ暗になる。結果的に、「諦め」へとつながっていく

根っことして、「なんとかしたい!」という気持ちがありながらも策がないゆえに諦めざるを得ない。この「諦め」ってすごく”寂しい”なと思った。

そんな機会を少しでも減らしたい。
心からの「これはいいや」という見切りならまだしも、策がないことによる諦めは、そこで生まれる寂しさは極力なくしたいなって。

そのためには学び続けるしかない。
新しいものに触れ続けるしかない。
アイデアって自分が知っているものの組み合わせによってしか生まれないから。どんなに忙しかったり余裕がなかったりしても、学びの時間はつくっていきたいな。

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