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「どう見られたいか」と「どう見られているか」

「こんなふうに思われたい」「こんなふうに見られたい」という姿がある人は、きっと多いんじゃないだろうか。「こんなふうに思われたい」がなくとも、「こんなふうには思われたくない」はあるかもしれないし。

じゃあ「こんなふうに見られたい」と思って選んだ行動や言葉は、漏れなく相手に伝わっているだろうか。

ここに対しての答えは「必ずしもそうとは言えない」なんじゃないかな。

それがタイトルにもあるように、
「どう見られたいか」と「どう見られているか」は違ってくる部分がある、に繋がってくる。

こちらが優しさのつもりで掛けた言葉が、相手にとっては厳しさに捉えられたり、こちらが愛情のつもりで見せた行動が、相手にとってはおせっかいと捉えられたり。

見られたい姿と見られている姿はなかなか一致しないものだ。

すごい難しい部分だよな~、と思う一方で、まぁそういうもんかと思う側面もある。だって人が違うから。ある歌にこんな歌詞がある。

「人と違う。だって人が違う」

まさに、だなと。

人によって大切にしている価値観も違えば、その言葉から受け取る感じ方も違う。人によって解釈は当然変わってくるものだ。

こういった側面において「言葉を扱う」ってすごい難しいことになってくる。言葉選びや語尾など人それぞれによってキャラクターが出るものだ。そのキャラクターによって、

「この人はこういうタイプなんだな」

という認識をされやすい。この部分において特に気をつけないといけないのはSNSのような媒体だと思う。

媒体特性上、コミュニケーションツールは言葉とプラスであっても画像や動画だ。それらのツールが発信者の一部であるということはわかっていても、その一部で”その人がどういう人か”を認識する。

ここにおいて「どう見られたいか」ばかりを意識して発信を続けた場合、もしそこで周りの捉え方と認識のズレが生まれていたらどんどんそのズレは大きくなっていく。そして媒体特性上、そのズレは永遠に広がり続ける。

これはもうそういうものなのだ。

だからといって自分を抑制してまで、とか、嘘をついてまで、とかして周りに合わせた発信をするのはお門違いで。

いかに確固たる「どう見られたいか」を持ちながら、「どう見られる」可能性があるかを意識してチューニングしていけるかが大事なんだと思う。そこは一発で合わせられるものではない。投稿をしながら修正をしながら合わせていくもの。

ただこれは、「ズレがあるかも」というアンテナを持っていないと、そもそも修正できる土俵に立てない。


主観と客観、どう見られたいかとどう見られているか。
その両面を大事にしていきたいものです。


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