当たり前を疑えるのって、当たり前じゃない
「当たり前を疑う」
大学時代に学んだ社会学の中で登場してきたフレーズ。
そのフレーズが、自分の人生の中に新しい1つの視点を与えてくれたのは言うまでもない。
固定観念にとらわれるのではなく、もっと広い視点を持つ。
あたかも”本当”のように振舞われている目の前のことも、実は”偽り”なのかもしれない、”虚像”なのかもしれない。
なんでもかんでも鵜呑みにするんじゃなく、自分の中で問いを持って仮説を立て検証していくことが大事だと。
「当たり前を疑う」という視点を知った時、過去の自分に対して「もっと現状を疑えればよかった、、」と思った。
でもよく考えてみると、当たり前を疑うことが出来るって当たり前じゃないんだと思う。
子どもの頃の自分は、親というのは両親が揃っているのが当たり前だと思ったから自分の置かれている状況を周りの友達には言えなかった。それが当たり前じゃないと知ったのはそれこそ大学生になってからで。
人生のターニングポイントともいえる、学生寮には多くの自分と似た境遇の人がいた。
じゃあもっと早くそのことに気づき疑えれば良かったのかというと、それは必ずしもそうとは言えない。疑うということはそのものと向き合うことで。子どもの頃の自分にとっては「向き合う」ことよりも「受け入れる」ことの方が身のためだと思い、”そういうもの”だと思い込んでいた。
例に出すものではないかもしれないが、虐待を受けてしまっている子どもが外に対して声をあげづらいのも似た状況じゃないかと思う。やっぱり家族というのはセーフティーネットで、子どもにとっては唯一帰れる場所で。そこを自分から手放しに行くのって結構しんどいことだと思う。
世間は言う。
「こんなサービスあるよ」「みんな守ってくれるよ」
でも当の本人はそんな声届かないし、そこまで俯瞰で物事は見れない。向き合うことのリスクを考えたら、受け入れた方がマシ、それが「当たり前」だと思い込んだ方が楽なのかもしれないなって。
ちょっと話が逸れてしまった。
つまり何が言いたいかと言うと、
当たり前を疑うって、疑えるに越したことはないかもしれないけど、誰しもが最初からそれが出来るわけではないということで。
疑えるための気づきや環境を提供する周りの役目がとても重要なんじゃないかと思う。「疑ってもいいんだよ」って「こういう可能性もあるよ」って。
その上で最後にどういう判断をとるかは本人が決めればいい。
まずはその段階までお膳立てをすることが大事だと思うんだ。
当たり前を疑えるって当たり前じゃない。
そこには周りの関わりからもすごく重要だなと。
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