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雰囲気って伝わる

良くも悪くも雰囲気って伝わる。
一体どれだけそのことを自覚できているだろうか。

その効果を受ける側の時はわかりやすいのに、
いざ自分が与える側に回ったとき、
一気に頭からその考えが抜けてしまうものだ。


就労支援の現場で働き始めて3年が経ったのだが、
最初の頃に上司から言われた言葉で今も大切にしているものがある。

「暇そうにしていた方がいいからね」


最初はその意味がわからなかった。
いや、正確に言えば説明してもらったから何となくはわかったんだが、それが一体どれだけの効果があるのかはわからなかった。

最初は「暇そうにする」ことが難しかった。
そこには2つの難しさがある。

まず前提として1つは、暇ではないということ。
最初の頃はそれでも覚えたてだから任されることも少なく、相対的に見て暇の部類だったけど、でも目の前のことに必死で余裕をつくるのに一苦労。

支援の仕事だけじゃなく、別業務もあったら余計にバタバタする。

もう1つが、手持ち無沙汰になることへの怖さ
これが占める割合が大きいかも。
「支援」という言葉が一人歩きしてしまうと、「何かする/してあげる」ことが自分の仕事だと感じてしまう。そんな時に、暇そうにしているということは何もしていないということになる。そこには謎の罪悪感がある。

でも支援において大事なのは「すること」ではなく「いること」だと気づいたのはちょっと時間が経ってからだった。


話が少し逸れてしまったので本題に戻る。

「暇そう」にすることで何が変わったか。

最初に比べてご利用者様が質問や声掛けをしてくるようになった。困りごとの共有や小さな報告を、ご利用者様からしてくれるようになった。

それにもう1つ、暇になることでくまなく目を配ることになる。目を配るようになるとちょっとした変化に気付けるようになる。

「なんか困ってそうだな」
「ちょっと集中切れてるかも」
「頭の中で何考えているのかな」

目の前のことに集中していただけでは気づけなかった発見がそこにはあった。そこで感じたことをご利用者様に確認して答え合わせをしたり、今どんな事考えているんですか?と聞いたり。

そうやってお互いを知っていく。


現場で働き始めて1年2年経って、新しい社員の方が入って客観的にその姿を見た時、「暇そうにしていた方がいいからね」の意義がより一層わかった。

忙しそうにしている人には声を掛けづらい。
忙しくしているとちょっとした周りの変化に気付けない。

それってもしかしたらその方にとってのターニングポイントを逃しているかもしれないと考えると、もったいないなって思う。

もちろん忙しいことってある。
それでも目を配ることは出来る。
目を配っていればちょっとした変化に気付ける。

それか近くに行って、一緒になって忙しくする。
一緒に頑張っているということを伝える。
それならまだ声を掛けやすい。


大事なのは線を引いちゃわないことなんだと思う。

自分とは違うことで忙しくしている姿を見ると、どこかおいていかれている気がして、別世界にいる感じがして関わりにくいものだ。

一緒の空間にいるよ、とわかってもらう。
そのための1つが「暇そうにしていること」に詰まっているんじゃないか、というのが3年経った今の自分の解釈だ。


例として支援の現場を挙げたけど、これは家族だったり友達関係だったりでも言えることで。
忙しそうにピリピリしている雰囲気があると、言葉に出さずとも周りはそれを感じ取ってしまうものだ。声を掛けづらいなって。

「ほんとはそんなことないのに」

という状態ならそんなのもったいない。

雰囲気、目を向けていきたいものだ。

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