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新刊『泥の銃弾』第一章全文公開!

 吉上亮・主著『泥の銃弾』は、お陰様で多くのご好評を頂いております。

 本編の冒頭から第一章全文を、note.にて公開しています。

SNSなどで本書を知った皆さま、未来に迫る現在へ――「日本」と「難民」を描いた、吉上亮渾身の〈勝負作〉を、この機会にぜひご一読ください。

『泥の銃弾』〈上〉吉上亮

ひとつの明々白々たる事実がある。人間はつねに自分が真実と認めたもののとりこになってしまうということだ。
『シーシュポスの神話』アルベール・カミュ/清水徹訳


序章

 二〇一九年七月九日、東京・千駄ヶ谷。新国立競技場で事件は起こった。
 演説のため、都知事が来賓席から立ち上がった直後だった。その身体が、ふいに乱暴に振り回された操り人形のように跳ね、次いで鮮血が飛び散った。
 凶弾に撃たれた東京都知事は、壇上に倒れた。自らの流血がもたらす紅の花のなかに横たわった。
 狙撃だ――。
 誰かが叫んだ。会場を警備するSPたちが、第二射から都知事を身を挺して守ろうと機敏に動いた。壇上の来賓たちは状況を理解できず棒立ちになるしかなった。
 一方、会場に集められていた難民たちは、素早く地面にその身を伏せていた。幾度も、自らの命を危機に晒されてきた者たちが身に着けてしまった反射的な行動だった。
 居並ぶ報道記者たちだけが、制止する警備員を押しのけ、壇上へ殺到していた。あたかも銃声が号砲となったように。今まさに、殺人が行われようとしている。目の前で発生した超弩級の事件(スクープ)を、ひとつでも多くの情報を手に入れようと躍起になっていた。
 自分もそのひとりだった。日就新聞社会部都政担当の記者として、他紙の記者と並んでその現場にいた。
 誰が都知事を撃ったのか。なぜ都知事は撃たれなければならなかったのか。その真実を求めて必死に事件を追った。生涯何度あるかわからない、とてつもないヤマだった。
 あれから一年が過ぎた。ふいに血と弾丸のビジョンが脳裏を過ぎる。目の前で飛び散った血の鮮やかな朱色を、今でも夢に見る。
 ときに自分が狙撃手になり都知事を撃った。あるいは都知事になり狙撃手にその身を貫かれた。飛来する殺意の弾丸。血と炸裂。あの銃弾を放った狙撃手は、いかなる感情を秘め、その引き金を引いたのか――。
 その動機。
 その手段。
 その目的。
 何度も何度も、殺意の瞬間に埋没しようと試み、犯人を理解しようとした。しかし、いまだに答えは出ていない。
 だが、ひとつだけ確かなことがある。
 あの事件が、自分の――天宮理宇(あまみやりう)というひとりの報道記者(ジャーナリスト)の人生を、決定的に変えたのだ。

第一部 トウキョウ

第一章 記者

 二〇二〇年五月、天宮が地方での出張取材を終え、東京駅に帰り着いたのは午前零時が近い深夜だった。
 新幹線改札を出てすぐのコンコースには、荷物もなく、着古した服をまとった外国人たちが寄り集まって腰を下ろしている。
 テーブルと椅子の置かれた軽食スペースに、通路の脇に、階段に、至るところに彼らはいた。肌の色は様々で、年齢性別もバラバラだった。これから一緒に旅行に行く相手を待っているというふうではない。ここが旅の終わり、もう一歩も動きたくないと言わんばかりに地面に根を張っている。談笑もせず、じっと押し黙っている。
 おそらく、今日、日本に到着したばかりの難民たちだった。日本が難民の全面受け入れを実施して以来、当たり前になった光景。出入国管理法改正を筆頭とする、いわゆる〈難民特措法〉の施行から数年で、日本が受け入れた難民の数は飛躍的に増えた。
 だが、その受け入れ体勢は必ずしも整っているとは言い難かった。いまも日本に辿り着いたはいいが、一夜の宿さえ見つからず、途方に暮れる難民たちが東京駅に溢れ返っている。政府は移民政策の舵を大きく切ったが、現実の社会(システム)は、その変化に対応しきれずにいた。
 難民たちのもとに駅員が近づいていった。翻訳アプリを起動した携帯端末を片手に、拡声器を通してイントネーションの怪しい各国言語で、駅からの退去するようアナウンスし始めた。
 終電が近い時刻だった。駅構内に宿泊することはできない。しかし、疲れ切った様子の難民たちは微動だにしない。立ち上がる力さえ残されていないというふうに。
 背広姿のビジネスマンやOL、旅行鞄を担いだ日本人観光客たちが、コンコースの床に座り込んだ難民の間を器用にすり抜けていく。足早に、少しも速度を緩めることもなく。面倒ごとに巻き込まれたくないのではない。ただ乗り換えに遅れたくないだけだった。
 天宮も、終電までさほど余裕があるわけではなかった。しかし、駅員のアナウンスを何となく聞いているうちに、自然と足が駅員のほうへ向かった。
少し気になったことがあり、質問したくなったからだ。携帯端末の録音アプリを起動し、慣れた仕草で胸ポケットに入れる。「ちょっといいですか。あのひとたちって、この後どうするんですか?」
 愛想よく話しかけたつもりだが、老齢の駅員はびくっとして、こちらを振り向いた。
 天宮の声は、低音で重く、よく響く。そのせいで威圧的だと怖がられることも多い。
「……何なの、あんた?」
 案の定、胡乱(うろん)な眼を向けられた。
 天宮は別段、胡散臭い見た目をしているわけではない。糊のきいた白いシャツにダークグレーのスーツ。短めにカットした髪。身長は一七八㎝だが、顔が小さいのでかなり背が高く見える。痩せているが筋肉質の体つき。格闘家ふうの端正なシルエット。
 だが、その眼差しが昏く鋭いせいで、不要な警戒心を相手に抱かせやすい。
「ああ、すみません。自分は天宮と言います。ジャーナリストをやってまして」
 精一杯愛想のいい笑みを浮かべながら、名刺を差し出した。
「フリージャーナリスト、天宮さん……」駅員は名刺を受け取ったが、天宮への不信は露わだった。「――この〈アマノ・クロニクル〉っていうの、TV番組?」
「いえ、ネットです。動画チャンネルとかSNSで配信していまして」
「それじゃあ知らないかなあ」
「そうですか。ありがとうございます」愛想笑いを浮かべつつ、気を取り直して会話を続けた。「それで、あのひとたちどうするんですかね?」
「どうするって何よ?」
「退去させてから、どこに連れていくのかって。さっきのアナウンス、いろんな国の言葉で 『宿泊場所に案内します』って言ってましたよね?」
 それが気になったのだ。仕事柄、難民絡みの事件を取材することが増えたため、会話はできずとも、自然と断片的に単語の意味を聞き取れるようになった。
「鉄道会社でやってる難民向けの宿泊施設とか、新しくできたんですか?」
「あー、そう……」相手が、いかにも面倒臭そうな顔になった。よくも気づきやがってという表情だった。「いや、まあ、とりあえず、あのひとたち、駅から出さないといけないから。日本人のホームレスは追い出すのに、外人の難民は駅に泊まれるってなったら、お客さんから文句言われちゃうでしょ?」
「それはまあ。でも、今はいいけど、冬とか外に締め出すの大変じゃないですか?」
 すると、駅員がやや間を置いてから、小声で囁いてきた。
「……ここだけの話だけどさ、駅の職員用区画に移動させてんの。清掃用具とか資材の倉庫を改造して収容スペース作って、とりあえず一晩だけ預かるわけ。新宿とか上野とか、都内のでっかい駅はどこもそういうの作ってるんだ。下手に外に出しちゃうとそれこそホームレスとの縄張り争いでトラブルになったり、悪くするとそのまま申請出さずに逃げちゃう難民とか出るから、一晩泊めて、それから適切な場所に行ってもらうわけ」
「……ああ、それが宿泊施設」
「これ、絶対書かないでよ」
「わかってますって。いや、でも深夜までお疲れ様です。日本人の客の相手だけでも大変なのに、難民までカバーってなるとキツイんじゃないですか、実際?」
「まあ、最初の頃はひどかったよね。でも結局は慣れだよ慣れ。そこにいるのが自然になればみんな気にしなくなるから。それが日本人のイイところ」
「……ま、確かに順応早いですよね」
 執拗な案内アナウンスにようやく難民たちが重い腰を上げ始めていた。日本人客たちは、そんな彼らを一瞥すらせず、さっさと横を通り過ぎていく。
すると駅員がぼそっと呟いた。
「去年もさ、あんな事件があって都内じゃけっこう荒れたけど、今はもう難民がいたって騒ぐひとは滅多にいないよ。それでどうにかなるわけじゃないし」
「……そうですね。全部、元通りですよね」
 天宮は、自分の顔から愛想笑いが抜け落ちたことに気づいた。しかし、どうしようもなかった。無意識に手が胸ポケットに伸びていた。携帯端末の録音アプリを切る。
「――それじゃ駅員さん、お忙しいみたいですから、これで失礼します」
「え、ああ……、こんなんでいいの?」
「いやもう十分です。すごく勉強になりました。よかったらまた話聞かせてください」
 何度も頭を下げた。相手の返答を待たず、終電に急ぐ人の波に紛れた。五番線ホームの階段を駆け上がり、ちょうど来た山手線外回りに飛び乗った。出発のアナウンスは、日本語より外国語のほうがずっと多い。日本は変わった。この社会は変わり続けている。
 なのに、自分だけは、そう、まだ変われずにいる――。

 中央区月島の自宅に帰ったのは、深夜一時近くのことだった。
 始発で東京を出発し、岐阜での取材に丸一日を費やした。一泊すれば楽だったが、無駄な出費は極力避けたかったので、終電で帰ってくるギリギリのスケジュールを組んだのだ。
 取材費用をすべて経費にツケられた新聞社時代と違い、フリーランスになってから仕事の銭勘定にシビアになった。かといって損得ばかりで肝心の取材を疎かにはできない。
 アイツは適当な記事を書く、なんて業界内で噂されるようになったら食っていけなくなる。何だかんだでジャーナリストとは信用の商売でもある。
 天宮の自宅は、東京メトロ有楽町線月島駅から徒歩五分の距離にあるタワーマンションの一室だった。間取りはファミリータイプの3LDK。独り暮らしには広すぎるし、引っ越しも何度か考えた。だが、その準備さえ億劫で、結局、今でもそのまま住んでいる。
「ただいま」
 そう呟いても、誰かが返事してくれるわけではない。それでも口癖のように今でも繰り返している。
 室内は暗い。照明のセンサーは、朝出かけるときに切ったままだった。
 天宮は、リビングには行かず、玄関を入ってすぐの位置にある仕事部屋へ向かった。
 まだ、仕事が残っているからだ。防音仕様の重い扉を開ける。室内に入ると音が消えた。オーディオルームのような静けさ。外に室内の音は漏れず、逆に外からの音も入ってこない。
 入ってすぐが作業スペースだった。机とワーキングチェア、書籍や資料でパンパンになった書架、チェック用のTVモニターが狭いスペースにぎっしりと詰めまれている。
 パーティションで区切った向こう側は、天宮がネット配信する個人報道チャンネル用の収録スタジオになっており、仕事部屋の大部分を占めている。丸テーブルと椅子。三脚つきの撮影用カメラ。装飾がわりの涸れない模造花が挿された花瓶。
 作業スペースの壁の一面に設置したラックにスーツジャケットを吊るす。一日歩き通しだったから汗の臭いが濃かった。横には同じように洗濯を待つジャケットがいくつも並んでいる。ストックは残り少ない。明日は、クリーニング屋に出しに行かなければ。
 天宮はフリーになって以来、取材に赴くときの恰好に気を遣うようになった。ネクタイこそ締めなくても、必ずスーツを着用し、身綺麗にするよう心掛けている。
 フリージャーナリストに新聞紙記者のような後ろ盾はない。だから取材時、初対面の相手から信用を得るには、第一印象が肝心だった。人は見た目がすべてではないが、一目で相手の内面まで見抜いてくれる人間は滅多にいない。
 天宮はワーキングチェアに腰掛ける。
 スマートフォンを机に置くと無線充電が始まった。遠方の取材でも、持参した取材道具は実質、この一台だけだった。インタビューの録音、記事用の写真撮影、取材先のコーディネーターとのやり取りなど、取材で必要になる機能はほぼ揃っている。ある意味、この小さなデバイスは、記者の分身とも言えた。ひと昔前なら撮影用のカメラや録音用のICレコーダー、原稿用のノートPCを放り込んだ取材バックを担いでいったのが嘘みたいだった。
それでも紙の名刺は必ず携帯している。裏面にARコードが印刷され、デバイスを翳(かざ)すと天宮が寄稿した記事の一覧を閲覧できる。記事ほど記者の身元を証明するものはない。
 天宮は作業用のデスクトップPCを立ち上げた。記者が使うマシンとしてはかなり大がかりだ。自分で報道チャンネルの動画編集も行うため、ある程度の高いスペックが必要だからだ。取材時にスマートフォンで録ったインタビューや撮影した写真、移動の合間に作成した取材メモ一式は、すでにクラウド上の作業フォルダに同期されている。
 帰りの電車で、ある程度、文章の下書きは済んでいた。あとはそれをまとめ、記事に構成し直し、テキストの細かいニュアンスを調整すればいい。
しばらく作業に没頭した。ボイスメモやこれまでの取材記録と参照しつつ、記事の内容に矛盾や齟齬がないかを確認し、文章を組み合わせ、ひとつの記事を構築していく。
 小説などと違って、報道記事のテキストに巧みな比喩や華麗な文章表現は必要ない。論旨は明確に、言葉遣いは簡潔に、明確なロジックに基づき文章を構成していく。記事に主観が入らないように気を遣い、憶測は排し、余計な思想信条は盛り込まない。
 ニュース記事には確固とした事実だけが記されなければならない。事実に対する公平性が真実への道を拓(ひら)く――新人だった頃、先輩記者たちから何度も薫陶を受けたものだった。
 いま、天宮が記事を書いているのは、先月、岐阜で発生した〈縫製工場女社長拉致監禁殺人事件〉だ。今日の岐阜出張は、取材内容の最後のウラ取りのためだった。
 事件は、犯人が工場で働く難民労働者だったことで、当初、多くの注目を集めた。
 被害者となった女社長の殺され方は、かなり凄惨なものだった。顔面を設備の整備補修に使うダクトテープでぐるぐる巻きにされ、工場裏の倉庫に一昼夜にわたって放置。さらに窒息死したかどうか確認するために裁ち鋏を身体に突き刺した。まだ被害者が生きていたので、胸や腹合計八ヶ所を刺して殺害した。
 極めて残虐性が高く、明確な殺意に基づく犯行だった。凶悪犯罪に対する世間の反応はいつも過敏だ。それが難民によるものであればなおさらに。
 事件捜査そのものは、スピーディーに解決した。というのも、主犯格の男を筆頭に、犯行に関わった難民労働者合計三名が次々に自首し、全面自供したためだ。
 彼らの動機はこうだ。法が定める最低賃金を遥かに下回る薄給で連日連夜働かされ、休日も技術研修を名目にした就業が常態化していた。さらに与えられた宿舎は家畜小屋をおざなりに造り直した劣悪な環境だった。それで奴隷同然の苦境に耐えかねて犯行に及んだというものだった。
 一応の理は通っている。労働環境を巡って起きるこの手の事件は、昨今では珍しくない。それこそ難民だけでなく、日本人であっても。
 だが、事件の第一報を聞いた天宮は、殺しのやり方がかなりエグかった割に、犯人たちがやけに潔く出頭したことに違和感を覚えた。
 ――ただの抗議が目的にしては殺害方法が残酷すぎる。
 難民の多くは紛争地帯から逃げてくる。そのせいで暴力や犯罪を躊躇わないという考えが日本社会では根強い。だが、実際の難民たちは、命がけで逃げてきた紛争地帯へ強制送還されることを何より恐れるからこそ、その行動に慎重になるものだった。
 本当に抗議が目的だったのか?
 そんな天宮の疑問をよそに、事件は、犯人の全面自供もあり速やかに捜査が進んだ。難民絡みの犯罪は、メディア的にもセンシティブな話題で、報道を自粛する傾向が大手メディアほど強いため、風化も急速だった。SNSでは難民擁護派と排斥派のいつもどおり生産性のない自論のぶつけ合いが盛り上がったが、これも半月もしないうちに下火になった。
 しかし、そこから天宮の取材が始まった。事件の速報性を競う大手新聞各社を相手に、個人ジャーナリストが勝つ見込みはない。だが、事件を徹底的に調べ、その深層に隠された真実に辿り着く調査報道であれば、組織に縛られないフリージャーナリストにも勝機がある。
 小さな違和感をキッカケに、天宮は懇意にしているネットジャーナルのデスクに、〈縫製工場女社長拉致監禁殺人事件〉の調査報道を提案した。
 デスクはゴーサインを出した。その優れた嗅覚で、この事件はネタになると踏んだのだ。
 天宮は、自らの情報網を駆使して、事件について徹底的に洗い直した。
そして、この事件が起きた背景に、もうひとつの事件があったことを突き止めた。
 過去に縫製工場でトラブルがなかったか調査した結果、三か月前に難民技能実習生監理機構の緊急監査を受けていたことが判明したのだ。
難民技能実習生監理機構は、難民の違法就労の頻発を受け、政府が設置した監査機構だ。
 監査の理由は、工場で働いていた難民労働者の女性が、工場近くの路上で事故死したからだった。彼女を轢いたトラックの運転手や周りの証言、監視カメラの映像から女性が歩道橋から転落したのは間違いなかった。地元警察は自殺と判断。身元を調べたところ、難民労働者であったことがわかり、緊急監査が行われたのだ。
 とはいえ、監査は簡易なものだった。工場自体が零細企業であり、機械を一日でも止めたら破産まっしぐらの自転車操業状態なんだと、後に殺害される女社長が泣いて訴えたことで、機構側も事情を察し、厳重注意に留めたのだ。しかし、このとき機構がもっと踏み込んだ監査をしていれば、後の女社長殺人事件は起きなかったかもしれなかった。
 なぜなら、この女性実習生の事故死こそが、女社長殺しの発端になったからだ。
 当時、件の女社長は、事故死した難民女性が仕事の能率が悪いことを理由に土日も出勤を明じ、目標生産量を達成するよう厳命していた。それだけではない。女性が家族に助けを求めて逃げ出さないよう現地コーディネーターを介し、パキスタンで第三国定住の認可を待つ彼女の家族に対して女性が真面目に勤務しないと情報操作を行っていた。
 理解に苦しむ行動だった。だが、そこまでしても工場側は作業員ひとりでも逃がしたくなかったのだ。実習生が逃げたりしたら監査機構に悪い印象を抱かれる。さらに相当無理してようやく達成できるくらいの営業目標を融資先から毎月設定されていた。
 結果、限界を迎えた難民女性は家族に助けを求めたが、家族側は取り合わなかった。連日にわたる過労で自暴自棄になり、逃亡を図ったすえ、近隣の歩道橋から身を投げ、車両に轢かれ死亡した。過労による事故死とされていたが、実際は意図的に逃げ場を失うよう追い詰められたすえの自殺だった。
自殺した難民女性の受難は死後も続いた。国内に彼女の親族がいないため、工場側で葬儀の手続きを済ませることになったが、ここでまた問題が生じたのだ。
 エンバーミング処理を施した死体の海外遠隔地への空輸は、死体一体で数百万円は掛かる。しかし、工場の操業状態ではそれだけの金額を捻出できなかった。
 そこで女社長は女性を地元業者に頼み、火葬した。最低限の務めを果たしたつもりだった。
 だが、それは大きな過ちだった。ムスリムは、最後の審判の日にその肉体が蘇るという信仰に基づき死体を土葬する。遺体を焼かれた死者は復活できず地獄に落ちるしかない。ゆえにムスリムにとって火葬は、死者に対する冒涜以外の何物でもなかった。
 死んだ女性は当時二〇歳。難民労働者たちの間で妹のように可愛がられていたそうだった。特に同郷のよしみもあって彼女に仕事や日本語を教えてやっていた難民労働者が三人いた。
 それこそが、今回の女社長殺しの犯人たちだった。
 本当の動機は復讐だった。家族同然の仲間を殺され、その死まで冒涜されたことへの。
 文化ギャップがもたらした難民による怨恨殺人が事件の真相だった。
 今日、取材時に見聞した証言が思い出された。
 地元住人は、難民を働かせてあげていた上に工場から逃げ出そうとして事故死した相手に火葬までしてあげたのに逆恨みで殺された、と女社長の悲運を口にしていた。
 一方で難民労働者たちは、女社長が、自分たちを換えの効く歯車程度にしか見ていない。日本に来たなら日本のルールに従えと高圧的だった、と強い口調で罵っていた。
 最後まで双方の事件への態度は平行線を辿った。日本において、難民は、いまなお異物であることが浮き彫りになっていた。
 記事を纏め、天宮は時計を確認した。
 午前三時を過ぎている。思ったよりも集中して作業に没頭していたようだった。
 記事の締め切りは明日の朝だが、今のうちに送っておく。早いに越したことはない。
 この時間なら、まだギリギリ相手も起きているだろう。新聞社時代からの長い付き合いで、互いに生活リズムをおおよそ把握している。
 作成した記事をメールに添付して送信。さらにチャットアプリで原稿を送った旨を先方に通知しておく。
 天宮は現在、いくつかのネットジャーナルと契約を交わし、記事を寄稿している。
 そのうち最も取引が多いのが、天宮が新聞社時代に世話になった先輩記者がデスクを務める大手ポータル系のネットジャーナルだ。要求される記事の精度は高く取材コストはかかるが、記事のボリュームも大きいので、報酬はけっこうな金額になる。事実上、今の自分の生計を支えている取引先だった。
 天宮はワーキングチェアに座ったまま、大きく伸びをする。首のあたりが凝り固まっていた。肩を回すとゴキゴキ骨が鳴る。リクライニングを倒し、一息つくと、どっと睡魔が襲ってきた。緊張が解けたせいだろう。今日一日の疲労が一気に押し寄せてきた。瞼が重い。
 そのときだった。机上のスマートフォンが鳴った。
 天宮は反射的に起き上がり、スマートフォンを手に取った。どんなときであれ、電話がくればすぐに飛びつくのは、記者として染みついた癖だった。
 デスクからのメッセージだった。
『記事確認しました。お疲れさま。ほぼほぼOKです。ちなみに明日って空いてる? ちょっと相談したいことがあるんだけど』
 自分より一回り年上のはずだが、いつもどおりノリが軽い。
 いずれにせよ、これで一仕事終わったと思ったと安堵しかけたところで、明日空いているか、という文面が気になった。
 いつもなら校正作業はメール上で完結する。互いに信頼もあり、意思疎通に齟齬が起きることも滅多にない。それが今回に限って、直接会って相談したいとはどういうことだろう。
 何かある、と直感した。すぐさまカレンダーアプリでスケジュールを確認する。幸いなことに明日は調整日に当てている。他社のニュース記事の締め切りもない完全な休日。
『明日、大丈夫です。お伺いします』
 メッセージを送ると、すぐに返信がきた。
『じゃ、明日正午に有楽町で! お店の場所はまたあとで送るね!』
 気安い口調の返事が来た。こりゃまだ呑んでるな、と思いつつ、
『承知しました』
 とだけ返信した。そして再び椅子のリクライニングに背を預けた。しかし、今のやり取りのせいで目が冴えてしまい、あれほど強かった眠気も去っていた。
「――もう少しやるか」
 しばらくじっとした後、天宮はリクライニングを起こし、机に向かった。
 動画編集ソフトを立ち上げる。明日夜に配信予定の個人報道チャンネル〈アマノ・クロニクル〉の編集作業がまた途中だったことを思い出したのだ。元々、明日の日中に作業する予定だったが、デスクと会う予定を入れたので、今のうちに作業を済ませておきたい。
〈アマノ・クロニクル〉の通常放送枠は三〇分。アップ先は大手の動画共有サービス。天宮がネットジャーナルに寄稿した事件を中心に取り扱い、より詳しく事件を報道する。記事では削り込みの過程で落とした情報も盛り込み、事件の深層を知りたい読者のニーズに応える。
 とはいえ、ネットの記事から〈アマノ・クロニクル〉まで辿り着くユーザーは少なかった。記事公開から動画版の配信まで数日のラグがあるせいだ。記事掲載と同タイミングで動画を公開できれば理想的だが、ネットメディアからすれば体よく宣伝に使われるから、まずOKを出してくれるところはない。
 今、天宮が編集を行っているのは、通常放送とは別に配信される六〇分枠の特別番組だった。
〝都知事狙撃事件の真相〟――動画ファイルには、すべて同じ名が冠され、いま天宮が編集を行っているものには、#10とナンバリングされている。
 本来、〈アマノ・クロニクル〉は、去年七月に起きた〈都知事狙撃事件〉の追跡調査のために、天宮が立ち上げたメディアだった。
 事件発生から約一年が過ぎた現在、大手メディアでさえも〈都知事狙撃事件〉を取り扱うことは稀になっており、割かれる紙面もわずかなものでしかない。事件捜査を巡る警察の不備、被疑者の勾留中の死亡など、いくつもの曰くつきの条件が重なったというのに、事件の風化ぶりは著しかった。
 難民テロリストによる現職都知事の暗殺未遂テロ――前代未聞の事件だった。
 あのときからだった。一度は、溶け込むはずだった難民という新たな隣人たちが、再び日本社会にとって異物として扱われるようになったのは。
 日本社会はもう難民に慣れたという声もある。
 だが、報道の現場にいる天宮からすれば、日本人と難民の溝は深まり続けているように見えた。慣れというより、無視に近い。すぐ傍にいるのに存在しない透明な存在のように、難民たちは扱われつつある。
 間違いなく、あの事件を契機に日本社会は変わった。
 狙撃犯は、なぜその引き金を引いたのか――。
 その真実の理由を知るため、天宮は今でも〈都知事狙撃事件〉を追い続けている。
 正義感ぶっているわけではなかった。
 舞い飛ぶ鮮血と乾いた銃声。
 あの日、目撃したテロの現場を夢に見る。
 自分は、あの事件の幻影に取り憑かれているのかもしれない。
〈都知事狙撃事件〉のすべての真相を暴かない限り人生を先に進められない、そんな呪いのような痛みが、胸の奥で疼いている。
 天宮は動画編集を終え、動画のエンコード作業を行う。処理が完了すると、アップロード準備に移った。公開時刻を設定。明日の夜になれば、動画が自動投稿される。
 最後に投稿者権限で動画のテスト再生を行う。公開前の最終チェック。
 画面に映っているのは、硬い表情を浮かべた男だ。またいっそう頬がこけたような気がする。そのせいで昏いまなざしがいっそう剣呑に見える。前にコメントで犯罪予告動画と揶揄されたときは、怒りを通り越してちょっと傷ついたくらいだった。
 そして画面に映るもうひとりの自分が口上を述べ始める。
 天宮は、まどろみのなかで、その訴えを聞く。
『みなさんは、昨年七月に発生した「都知事狙撃事件」を覚えているでしょうか――』

『――日本政府が、従来の難民に対する鎖国姿勢を改め、全面的な難民受け入れを決断したのは、二〇一七年のことでした。いわゆる〈難民特措法〉と呼ばれる一連の入国管理政策の大改革です。
二〇二〇年代には、少子高齢化の進行により五〇〇万人規模の労働力不足が予測され、これを解消するため、労働者としての移民、そして難民受け入れの基本方針が定められました。
さらに東京オリンピックの招致成功もあり、労働需要はさらに高まり、難民受け入れを開始してから数年の間に、百万人を優に超す外国人労働者が世界各国から集まったのです。
その半数以上がアフリカや中東、アジア地域の出身でした。紛争や迫害から逃れてきた難民で占められていました。
ヨーロッパにおける難民危機は、戦場から遠く離れた先進国も紛争の当事者となることを決定づけました。そして欧州各国が難民収容のキャパシティ限界に陥るなか、日本政府は人道支援という大義と国内労働力不足解消という実利を取る決断を下したのです。
いわば、戦後七〇年以上にわたって維持されてきた難民鎖国にメスをいれたわけですから、反発は必至でした。
しかし現実に大きな代替労働力となった難民たちは、人々が認めると認めないとに関わらず、あっという間に日本社会を支える不可欠な存在となりました。
 そして移民の国であると同時に、難民の国となった日本社会は、海の向こうから来た異邦人たちに戸惑いながらも、何とか共存の道を模索してきたはずでした。
ですが、昨年の七月に発生した〈都知事狙撃事件〉を契機に、日本社会の難民を見る眼は変わりました。共存の相手から管理すべき対象へと様変わりしたのです。
衆人環視のもとで都知事が難民出身者によって狙撃された――。
その事実が、日本人を、いまだかつて経験したことのなかった社会規模での移民・難民排斥の狂乱に直面させたのです。
狙撃テロ発生直後に世論は、ついに対テロ法案適用か、と沸き立ったことを覚えておられるでしょうか?
メディアでは、連日のように、パリ・アタックやベルギーのブリュッセル、ドイツ、デンマークなどヨーロッパ各地で起きたローンウルフ型テロがついに日本でも発生したと騒ぎ立てました。警察もまた、IS、アルカイダなどのグローバルジハードを掲げるイスラム武装勢力に感化された遠隔地テロリストの犯行と見做し、首都圏全域で大規模なローラー作戦を実施しました。一般市民による通報も相次ぎ、公的に認定された難民たちに紛れて国内で生活する不法滞在者(オーバーステイ)をや不法入国者など、膨大な数の不法滞在難民が摘発され、入国管理センターへ収監されました。
そして警察が拘束した難民出身者の男性が、犯行を自供したのです。
 自分が〈都知事狙撃事件〉の実行犯だ――、と。
 しかし、トルコ国籍のクルド系難民だった男性は、そう自供して間もなく、拘留中に急死しました。持病の悪化によるものでした。肝心の事件の動機や支援を受けた組織の特定など、事件の全容を究明する手段はすべて失われてしまったのです。
 警察は、拘置所内での監理に不備がなかったことを主張し、被疑者死亡による事件捜査の終結を宣言しました。事件発生から一ヶ月も断たぬ間の、早すぎる幕引きでした。
あとには、拘束された大量の不法滞在難民が残りました。
 この事件が、国内の不法難民を一掃する禊ぎになったと表現する識者やジャーナリストもいます。これで日本には、正しい難民だけが暮らせるようになった、と。
 しかし、本当にそうなのでしょうか?
そもそもなぜ、難民の狙撃手は都知事を撃ったのでしょう?
何を思い、その弾丸を銃に込め、引き金を引いたのでしょう?
 その真相が明らかにならない限り、事件はいまだに解決されたとは言い難いのです――』

 翌朝、目を覚ましたのは、机のうえだった。
 動画のチェックをしている途中に睡魔に襲われ、少し眼を瞑るだけのつもりが結局、机に突っ伏したまま眠ってしまったのだ。
 一日中着ていたうえに寝汗まで吸ったシャツが汗臭い。天宮は顔を顰めながら、残った眠気もついでに洗い流そうと浴室へ向かった。
 熱いシャワーを全身に浴びて、神経を無理やり切り替えた。新聞記者時代の激務のせいで、短い睡眠時間でも活動できるように習慣づけられている。
 タンクトップにカーゴパンツ姿になった天宮は、リビングへ向かう。ミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫から取り出し、パキっとキャップを外して一気に飲み干す。熱いシャワーで火照った身体が内側から鎮まっていく感覚が心地いい。
 天宮は普段から朝食を食べない。ガス台で湯を沸かし、その間にコーヒー豆を挽く。ペーパーフィルターでドリップし、コーヒーを淹れる。匂いのない殺風景な部屋に、コーヒーの香りが満ちる。
 マグカップはふたつ。自分の分はブラックで、もうひとつの小振りなカップにはミルクと砂糖を入れてマドラーで掻き混ぜる。
 そしてマグカップを手にリビングに隣接する寝室へ向かった。
 部屋を仕切る引き戸を開け、小さくつぶやいた。
「おはよう、早霧」
 薄いレースカーテン越しに朝の陽ざしが差し込んでいる。窓際の日当たりのいい位置に置かれていたダブルベッドは片付けられ、かわりに置かれた木製テーブルの卓上には、レトロなフィルム式の一眼カメラと写真立てが飾られている。
 マグカップをテーブルに置くと、立ち昇る湯気に、わずかに写真立てが曇る。
 写真には、妻の早霧が映っている。白黒の写真。学生時代、一度だけ天宮が彼女からカメラを借り、大学構内で撮影したものだった。ポートレートを撮るつもりが、出来上がったのは、報道写真のような、どこか物悲しい雰囲気の写真だった。構図のせいだった。天宮は人物を魅力的に撮るのが下手だった。写真は撮影者の物の見方を反映するなら、自分はまっとうな感性の持ち主とは言い難かった。
 それでも、早霧は、後に夫になる天宮が撮影したこの写真を好んでくれた。焼き増しをして、互いに一枚ずつ同じ写真をいつも大切に持ち歩いた。彼女が命を落としたあの日も。
「お前のおかげで、今回も無事に取材から帰ってこられたよ」
 妻の早霧が事故で亡くなってから、そろそろ一年になる。
 テーブルに飾ってあるカメラは、彼女が学生時代から愛用していたものだ。事故のときも身に着けていたため、地面に落下したとき強い衝撃を受け、外見こそほとんど無傷だが、中身はぐしゃぐしゃになっており修理は不可能だと言われ、そのままだった。
 早霧の最後を病院で看取ったときも同じだった。外傷はほとんどなかったのに、生きるための致命的な機能が彼女から失われていた。
 早霧の位牌は、彼女の両親の強い希望で実家の仏壇に祀られている。九州にある彼女の生家に頻繁に訪れることはできず、彼岸と盆の時期、そして命日以外は敷居を跨ぐことさえ許されない。若くして愛娘を失ったのだ。彼らの悲しみは十分に理解できた。
 こうして彼女が好きだった淹れ方でコーヒーを淹れるのは、せめてもの供養のつもりだった。避けられない出張は仕方ないが、出来る限り、毎朝、この習慣を欠かさずに行っている。
 コーヒーを飲みながら、仕事のことや時にはちょっとした愚痴も話したりする。
 皮肉なものだった。早霧が生きていた頃は、いつも仕事が忙しくて、一緒に朝のコーヒーを飲むなんてことは、週に一、二度あれば多いくらいだったのに。
 傍から見れば、毎日、死者に向かって語り続ける自分は、おかしくなったように見えるのだろうか。だが、一杯のコーヒーを飲み終わる頃には、また一日をどうにか生きようとする意志が取り戻されていることは間違いなかった。
 寝室を出た天宮は、マグカップをキッチンで洗ってから、玄関へ向かった。
 朝の日課だった。新聞受けに突っ込まれた新聞の束を引き抜き、リビングへ戻る。テーブルに購読している新聞四紙をずらりと並べる。それぞれ一面にざっと目を通し、リード文をチェック。気になったものがあれば最後まで記事を読む。それから各紙を通しでチェックする。ここ最近、大きな事件もないため、見出しはどこも似た内容だった。
 お馴染みの、三ヶ月後に開催を控えた東京オリンピック関連の記事ばかり。コンペ時のゴタゴタや建設予算オーバーなど着工前から様々な物議の的になってきた千駄ヶ谷の新国立競技場が大会開催日までに完成する見通しが立ったと報じていた。
 リベラル系の紙面では、オリンピック関連施設における難民労働者の過労問題を糾弾していたが、保守系の紙面は、それらの内容には触れず、都内で認可されるようになった民間警備企業への難民に対する疑義を呈しているのが目立った。
 それから自分がいま取材している岐阜の〈縫製工場女社長拉致監禁殺人事件〉に関する記事がないか探した。チェックするのは『国際(国内)』のページ。難民受け入れ解禁以来、各紙ともに国際面が拡充されたが、今ではそこに日本国内で起きる難民絡みの事件が報じられるのが定番になっている。
事件の記事を掲載しているのは古巣の日就新聞だけだった。それでも扱いは小さかった。日就新聞の帝王と言われた都留岐英生(つるぎひでお)会長が〈都知事狙撃事件〉の発生直後に急死してから約一年、かつては日本で起きたあらゆる難民絡みの事件に対し、徹底追及の姿勢を貫いてきた日就も、その報道方針を変えつつある。
 世間一般では、もう興味を失いつつあるということだろう。殺人事件は、もちろん悲劇だ。しかし、ひと一人が死んだくらいのニュースとは、瞬く間に鮮度が落ちてしまう。
 難民受け入れが始まってすぐの頃は難民が死んだり、あるいは誰かを殺せば大々的に報じられ、長く社会問題として報じられた。しかし難民たちが日本社会へ定着するにつれて、人々は慣れていった。同じ日本人が起こした殺人事件と同じように扱うようになった。事件直後は大いに騒ぎ、そして半月もすれば別の話題に移ってすべてを忘れる。
 こんな状況が正しいとは思えないが、それが現実だった。報道する側の人間としては、それでも事件に関心を持ち続ける読者のために仕事をするしかない。
 朝の日課を終えると、天宮は溜まっていたスーツを近くのクリーニング屋に出しに行き、溜まっていた洗濯物を洗い、部屋の掃除を済ます。それでも幾らか時間が余ったので、マンション内にあるトレーニングジムに行き、サーキットトレーニングを中心に軽めのメニューをこなして午前中を過ごした。
 約束の正午が近づき、天宮は自宅に戻ってシャワーを浴び、仕事部屋で外出の準備を整える。ストックしてあるクリーニング済みのシャツとスーツはそれぞれ一着だけだった。急な予定に備えて、予備を用意しておいて助かった。
 シャツを着用し、濃いグレーのスーツを羽織る。そろそろ気温も上がってきた。夏用のスーツをクリーニング屋に取りに行ったほうがいい。
 やがて準備を終えた天宮は、最後にワークデスクに置いてある写真を手に取った。
 早霧が映った白黒の写真は、かつて彼女が所持していたオリジナルの一枚だった。事故に遭ったとき、彼女の血を浴びた箇所が赤褐色に変色している。
「――一緒にいこうか、早霧」
 そっと微笑みかけ、写真をスーツの内ポケットに収めると、天宮は自宅を出た。

 月島駅から地下鉄に乗り、約束の正午前に有楽町に到着した。
 約束の場所は、銀座数寄屋橋交差点に面した複合商業ビルだった。黒い外壁とガラス材を組み合わせたモダンな外観、海外ブランドのショップや洒落た飲食店舗が入居している。高層階フロアにある寿司割烹の店を訪れ、予約の旨を伝えると個室に案内された。
 時間ぴったりだが、まだ相手は来ていなかった。応対した店員は、中東系の若い女性だった。ヒジャブの布を器用に折って結い上げた髪のように見立てている。流暢な日本語を話し、丁寧な所作で部屋を退出する。
 フリーになって以来、この手の店に縁がない天宮は、やや気後れしつつ、温かいほうじ茶を口に含んだ。他の個室から聞こえてくる客の会話はほとんど英語か中国語だった。主に外資系の接待に使われる店らしい。これならいつもの店のほうがよかった。普段、グエンとの打ち合わせは、同じく有楽町でも北側にある交通会館地下の古い喫茶店を使う。
 しばらく待っても相手が来ないので、天宮は取材バックから外での作業用に使うタブレットPCを取り出す。待ち時間の間に、〈アマノ・クロニクル〉のアナリティクスをチェックする。動画チャンネルの場合、動画の視聴数がダイレクトに広告収入に反映される。しかも最近は、動画再生数に足切ラインが設けられ、再生数が基準を下回るとアドセンスが支払われない規約になった。
〈アマノ・クロニクル〉は、毎回そのギリギリのところで推移していた。
収支を計算すると、今月も〈アマノ・クロニクル〉は負債を積み上げていた。ネットメディアの記事の稿料では補填ができない。つまりは赤字だ。フリーになって以来、貯金を切り崩す日々が続いている。
 本来、ネットメディアへのニュース記事の寄稿は、当座の収入をカバーするアルバイトのつもりだったが、現実はまるで逆だった。もうすぐ一年が経とうというのに、〈アマノ・クロニクル〉は独自の報道メディアとしての知名度を獲得できていない。
 アプローチを変えるべきなのか。
 ユーザーのコメントをチェックする。そもそも辿り着く人数が少ないので、好意的なコメントが大半だが、毎回妙に上から目線のユーザーもいる。あるいは病的なまでに攻撃的なコメントを繰り返すユーザーも。とはいえ、視聴さえしてくれれば広告収入に繋がるのだからどんな相手でも客として扱わなければいけない。
 そんななかで、ひとりのアカウントが目についた。先月の初アクセス以来、更新タイミングで真っ先にアクセスしてくる、さらに過去放送のアーカイブまで大量に動画を購入している。かなり熱心な新規ユーザーだ。
 毎週必ず視聴してくれているから有り難い限りだが、なぜか、開始数分で離脱している動画も数多くあった。
 少し考え、〝見出し〟をチェックしていることに気づいた。自分が毎朝、新聞各紙のリード文を確認するように。だが、それでも疑問が湧いた。それならどうして見切りをつけず、毎回必ず視聴しにくるのだろうか。
 このユーザーには、〈アマノ・クロニクル〉辛抱強く視聴を継続する理由がある。それを調べるべきだ。貴重なコアユーザーになるかもしれないからだ。試しに、最後まで視聴した放送回の内容を確認すると、〈都知事狙撃事件〉の特集回だった。
 そのときだった。
「やっほー、アーマちゃん」
 溌剌としたソプラノ声に顔を上げた。ふわふわした明るい茶髪をしたホストのような優男が個室に入ってくるところだった。身体のラインがよく出るイタリア製の細身のスーツ。胸ポケットにはご丁寧にチーフまで挿してある。左の薬指には繊細な細工が施された銀の指輪。彼が個室に入ってくると、ふわっと花のような香水の匂いが漂う。
 天宮はノートPCを閉じて挨拶する。
「お疲れ様です。グエンさん。相変わらずアルマーニ、決まってますね」
 いったい総額幾ら掛けてんのかなと思いつつ、いつもどおり容姿を褒めた。グエンはナルシストなのでそうされると喜ぶし、何より実際キマっている。
「ありがと。ウチのパートナーがこの前の誕生日、オーダーで仕立ててくれたんだ」
 グエン・アン・リー。中国系アメリカ人の二世。日本の大学へ留学し、そのまま全国紙・日就新聞社に就職。高度技能者として永住権を取得している。
 元々、天宮が所属していた日就新聞社会部の先輩記者で、移民雇用枠と周囲から揶揄されながらも次々にスクープを上げ、実力第一主義の日就新聞社で実績を積み、最終的に警視庁キャップまで上り詰めた敏腕だった。
 しかし三年前、減収が続く新聞メディアにさっさと見切りをつけ、大手ネットポータルのニュースサイトに引き抜きに応じ、デスクに就任した。その経緯から古巣の日就新聞とは犬猿の仲だが、かえって、同じく日就に見切りをつけた天宮に目をかけてくれている。
「というか、待たせちゃった?」
「いえ、今来たところですから」
「ホントかなあ」
 グエンは席につき、店員から受け取ったおしぼりで手を拭き、顔の汗を拭った。仕草のひとつひとつが日本人より日本人らしかった。
「それでさー、聞いてくれる? さっきウチのライターがね、今朝締切の記事が今になって全然書けてませんって泣きついてきちゃったわけ」
「へえ、そりゃ災難ですね」
「とはいえ、埋め草(ツナギ)だからね。落ちても大して影響はないんだけど、あの子はもう駄目かなあ。次からは別のライターさんを探さないと」
 世間話のような気軽さで、さらっと恐ろしいことを言う。グエンはいつでも即断即決の男だった。そしていつも正しい判断を下す。
「ま、暗い話はこれくらいにして、とりあえずお昼食べようよ」
 程なくして、焼き物の皿に盛られた握り寿司と汁物、茶わん蒸しが運ばれてきた。予めグエンが注文しておいたのだろう。さらに冷酒の徳利と猪口が自分のところに置かれる。
「それじゃ乾杯」
 互いに掲げた猪口を口に運んだ。酒がじっと身体に沁み込んでくる感じがした。疲労が抜けきっていないのか、身体が火照る。
「それでさ、アマちゃん。今回もよかったよー。岐阜の女社長殺し」
グエンが寿司を摘みながら言った。そっけないが紛れもない賛辞だった。それだけで疲れが急に消えていく気がした。
「相変わらず、調べ方がしつこくていいよね。やっぱ日就で兵役を積んだヤツは違う」
 天宮の古巣である日就新聞は、記者の王と称され、政財界に絶大な影響力を及ぼした都留岐英生会長の手により、戦後、その組織規模を爆発的に拡大させた。その遺産は現在も引き継がれ、二〇二〇年現在でも日本で唯一、全国規模の販売網と膨大な支局数を維持し、独自の情報網を築く報道業界の一大帝国を誇っていた。
 そんな日就の記者は、社内記者同士は迅速に取材情報を共有し一糸乱れぬ連携をするが、他社とは一切慣れ合わずネタの融通や取引もしないことから、時に軍隊と揶揄された。
 天宮もグエンも、そういう環境で記者としての経験を積んだ。兵役のようなものだ。
「掘るところはいっぱいありましたから……。というか、普通はこれくらいやるのが当たり前じゃないですか」
「最近はどこも調べ方が雑過ぎるよねえ。速報だけが命ってわけじゃないのにさ」
「だからこそ、俺みたいなフリーにも、まだ戦う場所が残されてるって気もしますよ」
「まあね。それにしても、この短い期間でよく調べてくれたね」
グエンは持参したタブレットを起動し、記事の原稿データを開く。ちらっと見えたが、細かい注釈がびっしりと書き込まれていた。ちゃらんぽらんなようで仕事は速く的確だった。
「世間じゃ、極悪難民の犯人に同情の余地はないって論調だったけど、実は殺された女社長のほうもクソヤローでしたってなれば、世間の連中はまた燃え上がってくれそう」
「この記事、絶対に荒れますよねえ、やっぱり……」
 グエンは上々という雰囲気だったが、天宮はどこか居心地悪いものを感じる。
「被害者も相当なことをやってましたけど、それでも殺しはやりすぎですよ」
「何て言うか、この事件、『予告された殺人の記録』みたいだよね」
「ガルシア・マルケス、ですか」
「……ビカリオ兄弟はサンディアゴ・ナサールを殺すと街中に触れ回ったのに誰も止めようとせず、殺人は実行されてしまった。どこかで止められたかもしれないが、誰も止めなかった。周りの奴らが誰ひとりとしてそいつらの恨みを本気で聞いてやらなかったから、こうなった」
 あくまでグエンは冷静なままだった。
「というか、いまどきニュースで大切なのは、どれだけ燃料として燃えるかどうかだよ。今回みたいにどっちも悪い事件っていうのが一番ありがたい」
「そんなもんですか?」
「そう、そんなもん。ネットメディアじゃ、荒れるニュースほどいいモノだから。今回も加害者被害者双方に肩入れした連中が好き放題に暴れるよ。まあ、結局は殺した難民のほうが悪いってことで決着がつくんだろうけどね。しばらくは燃えてくれるんじゃない」
 グエンがデスクを務める〈News Seeker〉の記事は、いつも炎上しやすい。今回のような難民絡みの事件は、SNSでは大小の差こそあれ、必ず難民排斥派と難民擁護派による論争が起きる。キレ者のグエンは、自分のメディア媒体がネットユーザ―によって消費されることが分かっているから、彼らの反射的な行動をむしろ利用する。
 難民嫌いのネットユーザ―は記事内容に文句をつける。こういうとき、必ず彼らは記事を拡散する。ある程度まで炎上が拡がってくると、今度は難民の擁護派が反論を始める。犯人の行為は残酷だがそうせざるを得ない苦境にあった云々。ここまでくれば、あとは勝手にユーザー同士で盛り上がる。
 そのコンフリクトが起こっている間、記事は共有され、拡散され続ける。インターネットの利益構造は広告ビジネスと無慈悲に結びついている。どんな理由であれ、クリック数を稼げば金になる。ネットユーザ―は情報入手に一円も払わないが、彼らが気炎を上げるほど、記事を発信したネットジャーナル側には収益がもたらされる。
 グエンは、これを揶揄も込めて〝炎上報道〟と呼んでいる。
 天宮も結果的に、それに加担している。あくまで自分は、客観報道を徹底しているつもりだ。可能な限り主観を捨て、事実のみを積み上げ、真実というおぼろげな糸を紡いでみせる。
 だが、グエン曰く、それこそが読者を燃え上がらせる燃料になるという。純度が高く透明な記事ほど、ひとはそこに敵対する相手を攻撃する理由を、都合よく見つけ出す。
 訳が分からない。新聞社という組織の外に出て直面したフリーランスの世界は、まったく未知の世界、魑魅魍魎が渦巻く魔窟としか思えなかった。
 かといって、グエンと手を切るわけにはいかない。契約している複数のメディア媒体のうち、彼のところがいちばん金払いがいいし、何より、記者として追求したいネタを提供してくれるのは間違いないからだ。
「……まあ、俺としては自分で書いた記事を世に出せるなら、どう受け取られたっていいですよ。真実が誰にも知られず忘れ去られてしまうより、よっぽどマシです」
 だから、たとえ書いた記事をどのように使われようと、ある程度は辛抱すべきだ。
「相変わらず、アマちゃんは真面目だね。だから信用できるんだけど」
 グエンは上機嫌で冷の入った猪口をあおった。天宮は、酌をしようと手に取った徳利が空になっていることに気づく。
「あ、おかわりどうしますか?」
「ううん、大丈夫。それよりさー」
 グエンは手をひらひらとさせ、それから、天宮をじっと見つめた。 
「――ところで最近、忙しい?」
 来た。天宮は反射的に身構えた。グエンがこういう言葉を使うのは、次のネタを振るときだ。今回、グエンは個室がある場所を選んだ。それも外国人ばかりで日本人客があまりこない店。同業者に立ち聞きされたくないという態度がアリアリと見えている。
「あの事件、まだ追ってるよね?」
「〈都知事狙撃事件〉でしたら……、はい」
 グエンには、天宮が退社したときにもかなり世話になった。当然、今でも天宮が〈都知事狙撃事件〉を追っていることは知っている。
 だが、ここで、その話を振られるとは思わなかった。
「実はさ、ここ最近、その事件を巡って捜査に何か動きがあるらしいよ」
「――それ、本当ですか」
 天宮はグエンの言葉に目を丸くした。
「……あれ、そうなの?」
 どこか落胆したような声色だった。会話が途切れ、沈黙が場を支配する。
 まずい反応をしてしまった。昂揚はすぐに消え去った。相手は叩き上げの記者だ。真偽不確かな情報をうっかり口にしたりはしない。こちらの情報収集能力を試されたのだ。
 天宮は日就新聞を喧嘩別れ同然に退職してからも可能な限り当時の情報網を維持してきた。フリーの記者にとって人脈は仕事の生命線だからだ。しかし同業者なら知っていて当然の情報が自分の耳に入っていないとすれば、その情報網から自分が弾き出されたか、あるいは既存の情報網が使いものにならなくなったことを意味する。
 グエンは、どこから〈都知事狙撃事件〉の新情報を入手したのだろう。彼は警視庁キャップ時代、捜二と懇意だった。であれば、都知事絡みのサンズイのネタでも摑んだのだろうか。だが、それを巡って、一年前に捜査が終了した〈都知事狙撃事件〉について蒸し返すのも妙な話だ。
 いや、違う。
 そこで天宮は気づいた。むしろ、契機となる動きそのものが生じたのだ。
「じゃあ――、火神(かがみ)都知事。ついに国政に出るんですか」
「うん」
 グエンはうなずいた。今度は悪くない答えができたようだった。
「本当は、去年の〈狙撃事件〉のときに国政進出を宣言するつもりだったでしょ?」
「ええ、でも運悪く撃たれてしまった」
「けど今度は、その療養も済んで時期的にもオリンピックもある。今度こそ本気で行くって腹積もりらしい」
 これまで選挙演説やメディアへのパフォーマンスにおいて革新的なフレーズを多様し都民の強い支持を集めつも、難民行政を巡る法制度改革に苦戦を続けていた火神都知事だったが、〈狙撃事件〉が彼のキャリアを大きく変えた。
 銃弾を喰らい一時は危篤状態に陥りながらも、八時間にわたる大手術を経て死を免れた火神都知事は、奇跡の生還者として都民だけでなく、全国的に強い支持を集めるようになった。口先だけではない本当の政治家だと謳われた。
「火神さんは劇場型政治の名俳優だから、ここぞってタイミングを見極めてたみたい」
「……第二次岸辺政権が難民の大量受け入れの最大の根拠にしてきた東京オリンピックが終わってしまえば、宙に浮いた数百万規模の難民労働力は、その行方を巡って国内世論の大きな争点になりますよね」
「となれば、俄然、日本で最も多くの難民を抱える東京の行政府のトップたる火神都知事への注目も集まるってわけ」
「ですが、何でまた警察は再捜査をこのタイミングで? 連中こそ、さっさと事件の幕引きを図った張本人だったじゃないですか」
「んなこと知らないよ。それを探るのが記者の仕事でしょ」
 まったくそのとおりだ。おそらく警察組織の内部で大きな方針転換があったのだ。
「なら、次のネタは〈都知事狙撃事件〉ですか?」
「――うちの〈ジャーナル〉で来月から三ヶ月連続で報道特番を組む。最終回の掲載は、東京オリンピックの開会式直前、火神都知事が国政への進出を宣言すると目されるタイミングに、〈都知事狙撃事件〉の総括をぶつける」
 グエンは、決定事項を伝達するようにスケジュールを口にした。
 天宮は、足元がぐらぐらと揺れる心地だった。遠く激しい奔流が近づきつつある兆し。緊張で喉がカラカラに乾いていた。千載一遇の機会だった。これまで独自に調査報道を続けていたが、もし大手メディアが警察の動きを察知し、再び〈都知事狙撃事件〉に興味を示せば、物量に物を言わせた取材力によって、あっという間に追い抜かれるだろう。
 あまり猶予はない。一刻も早く取材を開始しなければならない。
「桜田門が〈都知事狙撃事件〉の捜査で動いている以上、近い将来、都知事と難民を巡って何かが確実に起こると考えた方がいい。その正体を見極める。そしてオレの知る限り、あの事件に最も詳しい記者はお前だからね、――で、アマちゃん。どうする?」
 もはや選択肢はないに等しい。だが、もとより答えはひとつしかなかった。
「やりますよ。そのために俺は今日までジャーナリストを続けてきたんですから」

――そして、記者・天宮の〈都知事狙撃事件〉再調査が始まる。2020年東京、放たれるその銃弾は、再び日本社会を揺るがす。

『泥の銃弾』上下巻は、新潮文庫より好評発売中。全国書店、ネット書店でご購入いただけます。どうぞよろしくお願いいたします。

※注:この記事の本文テキストは、入稿前のデータを使用しているため、発売中の文庫版の本文と異なる文言がある可能性がございます。予めご了承ください。

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