見出し画像

他人の期待に応え続ける人生を続けるのか?

私は他人の期待に応える人生を送ってきたと思う。

だってそうすれば、自分がここに居ていいっていう感覚を得られるから。
自分の居場所ができるから。人の役に立つ自分は価値があるって思えるから。

根底には、自分の居場所なんてない、自分には価値がないっていう思いがあるから、なんとかして自分の居場所を作らなくてはいけない。
そのための方法が私の場合は「他人の期待に応えること」だった。

他人に何かをお願いされるとすぐに飛びついて、また何かをお願いされて、他人の期待に応えて、っていうことを続けて。
一時的には安心できる。「私は他人の期待に応えられた」っていう満足感がある。でもそれは長くは続かない。

だからまた誰か私にお願いしてくれる人を探して。そんな人がみじかにいたじゃないか。母。私にキリの無いお願いをしてくるではないか。誰かの「期待」を探している私と、私にお願いをする母と。
期待に応えて。またお願いを引き受けて。それに応えて。。。の繰り返し。

子どもの時からそうだったと思う。
そんな生き方をしていることに気づけないくらい、他人の期待に応えることが当たり前になっていて。ふと気がつくといつの間にか他人の期待に応えてしまっていた。だから私すごく受け身だなってすごく自分で思う。

これをこれからもずっと続けますか〜?っていう話。
答えは出てるんだけど、怖い。

誰かのお願いに応えないことは、私にとってはとても怖いこと。
誰かの期待に応えることは私の生存を保証してくれていたから。
「人の期待に応えない=死」みたいなもんだから、死の恐怖よ。

でもやりたくもない依頼を引き受けて、応えたくもない期待に応えることはもう無理。自分を押さえつけて殺すの、もう無理。

「他人の期待に応えていないと死んじゃう私」
VS
「他人の期待に応え続けたら、自分を大切にできず死んじゃう私」

あれ?どっちにしても必死なんだけどwwwww



ここで、メタ認知というものを使ってみる。

いろいろな私がいる。

「他人の期待に応えていないと死んじゃう私」もいれば
「他人の期待に応え続けたら、自分を大切にできず死んじゃう私」もいて
それ以外の私もいて。。。
どの私がいいとか悪いとか、そういうことじゃなくて、いろんな私がいるんだなぁと。

「他人の期待に応えていないと死んじゃう私」もいれば
「他人の期待に応え続けたら、自分を大切にできず死んじゃう私」もいるんだなってその事実を受け入れてあげたい。

「他人の期待に応えなきゃいけない私」には
ありがとう、とっても頑張ったねって労ってあげたい。
これからも「他人の期待に応えないとやばいよ〜」って声かけてくれるんだろうけど。それもまたあるということで。

全然まとまらないけど、終わり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?