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読書感想文『透明な夜の香り』

池袋駅東口の横断歩道をぼんやり歩いていたら、とても懐かしい香りとすれ違った。
週末の池袋はひどい人混みで、俺はその香りの主を視線で追うこともできなかった。

林檎のような、洗剤か柔軟剤のその香りは、あっという間に池袋の雑踏へと尾を引きながら消えていく。
瞬間、全身が総毛立つほどいやらしい気分になった。

キザな言い方になるが、香りというものはあまりにも強烈で、あまりにも儚い。
一瞬で10年以上前の気持ちに俺を引き戻しながら、あっという間に消えてしまう。通り魔みたいだ、と思う。

毒林檎の柔軟剤

人生最愛の男がいた。あの男ほど俺の心と身体と下半身を揺さぶる人間は、後にも先にももう現れないだろうという確信が俺の中にはある。

彼の使っていた、見たこともない海外メーカーの洗剤の香りを、俺は今もこうして鮮烈に思い出すことができる。正確にはその香りに付随した、男との血生臭い、精液臭い歴史を。

絶対に俺を幸せにはしてくれない男であり、俺も男にとってのそういう存在だった。それでも俺たちはどういう不幸か、互いに不協和音を共鳴させ続けることをやめられなかった。
他の男に逃げても、結局最後はまた彼に戻ってしまうということを繰り返した。

愛だの恋だのとかっこよく言い換えることもできるが結局は強烈な性欲と独占欲でがんじがらめに結びついていただけなんだと思う。

それでも10年、である。35の俺にとってそれはあまりにも長い時間だ。

彼の使っていた恋しくてたまらない林檎の香りの洗剤を、俺は今も見つけられない。見つけられなくていいと思う。あの香りを嗅いだら俺はまたおかしくなってしまう気がするからだ。

10年前ならいざ知らず、快楽だけを追い求めるには年を取りすぎたし、失えない多くのものを抱えてしまった。

お伽話の毒林檎を食べたことはないが、もし実在するならきっとあんな香りだ。
いっそ殺してほしいと思うほど人を好きになることは、もうないだろう。彼を除けば。

ジャズクラブとラッキーストライク

ジャズクラブ、という場所に行ったことはない。音楽や芸術の素養がない俺に、ジャズはよくわからない。

ただ、かつて好きだった男が、マルジェラの「ジャズクラブ」という香水を使っていた。
ラムとタバコを使ったウッディなタイプの香水だ。

俺はタバコを吸う男が好きだ。かつては自分が喫煙者だからだと思っていたが、禁煙を始めて3年経った今でも、紙タバコの副流煙の、スウィートな香りを愛してやまない。それを咥える男の横顔も。

男に抱きしめられて「ジャズクラブ」の香りを嗅ぎ取るたびに、行ったこともないジャズクラブという場所の景色が瞼の裏に浮かんだ。男の吸っていたラッキーストライクの香りと合わせて。

薄暗いジャズクラブで、ラム酒片手にタバコ臭い彼とキスをしたらとても素敵だろうと思った。

でも男は俺とは安っぽいBGMのラブホテルでしか最後まで会ってくれなかったし、結局つまんない女とくっついて、彼女のために紙タバコをやめて電子タバコに変えてしまった。

電子タバコの情けない匂いは大嫌いだ。理由はよくわからないが、とても辛い気持ちになる。

ところで困ったことに、男と同じ「ジャズクラブ」を俺の担当のイケメン美容師がつけている。おまけに彼は紙タバコの愛煙者だ。
至近距離でシャンプーをされるたびにたまらない気持ちになるので、とても困る。

ジャズクラブという場所に、行ったことはまだない。何となく、行かないままの方がいい気がしている。

シャネルの5番

シャネルの5番という香水を付けるのは、上品でお金持ちの女性だけだと思っていた。

だから新宿2丁目のクラブで知り合った色白で背の高い男からその香りがしたときは、不思議な感じがした。でもすぐに大好きになった。シャネルの5番も、男のことも。

世の中には俺より手が冷たい男がいるんだ、と思った。
俺は季節問わずひどい末端冷え性で、友人やセフレたちに散々「死体」「ゾンビ」「アナと雪の女王」などといじられてきた。

だから裸で抱き合って、生まれて初めて自分と同じか、あるいはもっと冷たい手足をしている男に触れたとき、自分にも他者を温めることができるのだと感じた。

ただ、それだけの思い出だ。
男とはあっという間に終わってしまって、今どうしているかも知らない。

それでもデパートの香水売り場や街中で、シャネルの5番の香りがするとつい振り返ってしまう。でも大体そこには、当初の俺のイメージ通り、上品でお金持ちそうな女性が歩いているだけである。

ココ・シャネルは「香水をつけない女性に未来は無い」という言葉を残したという。
他者の記憶に未来永劫残るためのツールとして、これほど強烈なものはない、とは思う。

『透明な夜の香り』

千早茜『透明な夜の香り』は、残酷なまでに人間の嗅覚を刺激する物語だ。

そう、嗅覚は残酷だ。あまりにも強く、そして目に見えない、という容赦なさがある。
「もはや理屈じゃない」ものほどこの世に強いものは無いだろう。感情が理性を上回る瞬間、過ちを犯す時、いつも俺のそばには何かしらの香りがあった。

本のしおりのように、香りの記憶は人生の要所要所に差し込まれて、忘れかけていたものを、忘れてしまいたいと思っていたものを、あっけなく引きずり出してしまう。

そしてそれは美しいものや、素敵なものばかりではない。

香りの記憶とは、その人間の人生そのものを炙り出す。そして、喜びよりも過ちの方がずっと多いのが俺という人間の人生だ。

恐ろしくて、俺はもうこの本を開ける気がしない。


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