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読書感想文 『潮風キッチン』


今年もこの季節がやってきてしまった。
桜が散って一気に気温が上がり始め、新芽や新緑がぐんぐん顔を覗かせるこの季節。半袖で歩くには朝晩はまだ肌寒いが、漂う空気は間違いなくわずかな「夏」の香りを纏っている。夏の湿り気は毎年毎年いつも俺を幸福に甘やかに堕落させてしまう。俺が男と愉しい過ちを犯すのはいつも夏だ。

人生にはロマンスが必要だ。少なくとも俺にとっては、だが。
それは過剰であればあるほどよい、とよく思う。
だから俺は現代の世相を強く反映させたような、説教くさい、現実的な物語や作品がそこまで好きではないし、関心も薄い。
この世界は、人生は、あまりにも厳しい。
俺は先進国と呼ばれるこの国で、五体満足で病気もせず、そこそこハンサムでお金に困ったこともほとんどないような生き方を34年間してきたが、それでも生きることは辛いことが多いと感じる。
人生はいつも苦難の連続で、地面を這いずり回り、それでもなんとか生きている、というような体たらくだ。
そんな現実というやつを24時間直視して生きられるほど、人は強くないはずだ。

俺にとって文学に触れること、そして男とのロマンスとは、酒に酔う事と同義だ。
強い刺激に酔いしれ、感覚を麻痺させ、現実の輪郭をぼやけさせる。
人によってはそれを現実逃避や依存と呼ぶかもしれないが、俺のような弱い人間が生きるのにはそれが必要だった。小説を読み、酒を飲み、そして男とロマンチックな恋に落ちる。ということが俺の人生のほとんどだったし、今もそうだ。

雨は、降り続いている。ミニ・コンポからは、テンプテーションズの〈My Girl〉がゆったりと流れていた。それを聞いた監督が、「どんな男でも、自分にとってのマイ・ガールと、ふいに出会ってしまう事はあるものだからね……」と呟いた。窓ガラスを、雨が濡らしている。(本文より)

例えば、こんな昭和のトレンディドラマも真っ青みたいなキザなセリフを実際に吐く男は令和の世に置いてはそうそういないだろう。しかしこの喜多嶋隆著『潮風キッチンは』令和3年に刊行された長編小説だ。もちろん時代設定も現代で、スマホやインスタといったワードも登場する。
数多ある喜多嶋隆の小説には、こんな場面が無数に散りばめられている。
夏、海、葉山、潮風、車、青春、夕日、そして恋。
少々、というかだいぶバブリーな世界観ではあるが、それが異様に心地よい。もちろんそれは俺がバブリーな時代を知らないが故の憧憬なのかもしれないが。
しかし、冷めていてどこか達観したような無機質な恋愛観が主流になりつつある現代で、これほどいい意味で臭くて、大仰で、クールな恋愛小説がどれほどあるだろうか。みんなどうしてそんなに「現実」とやらが好きになってしまったのだろう。なんでもすぐにスマホで調べられるからだろうか?

俺は実際の恋愛にもこの価値観を適用しているので、そのせいかなかなかいい男が見つからなかったり、長続きしなかったりするのだろう。男がロマンチックなことを言ってくれるのは、夢見心地にしてくれるのは、せいぜい最初の3ヶ月くらいだからだ。
だが俺は夢が見たい。3ヶ月どころか、1年でも、3年でも、10年でも、それこそ永遠に見れる夢が、ロマンスが欲しい。それはきっとどこかにあると信じている。
「愛と恋は違う」「本当の愛は落ち着いたものだ」「恋人から家族へ」というような先人たちの意見も理解できるが、それは俺の価値観や美学からは程遠い。
何年付き合っても甘い言葉で愛を囁き合いたいし、うわついた気持ちでデートや熱い夜を楽しみたいし、相手の前では絶対オナラなんかしない。地に足なんか、つけたくない。俺はいつまでもロマンスという潮風の中を浮遊していたいのだ。そうしている時間だけ、俺にとっての世界は美しい。

そんな気持ちをいつでも再確認させてくれるのが喜多嶋隆の小説だ。
「いいんだ、俺はこの感じで生きていていいんだ」と自分の生き方を肯定されている気持ちになる。
そしてやはり夏は恋の季節なのだ、と、浮つくような、シーブリーズのような爽やかさとドロッとした己の情念が入り混じった、奇妙な昂りを、一歩ずつ夏が近づいてくるこの季節には感じずにはいられない。サザンや80年代のシティポップを聴きながら。

いいじゃないか。夢見るように生きたっていいじゃないか。
人間の一生は短い。うわついた気持ちで生きたって、そのまま死ねればそれもまた幸福な人生だろう。

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