ものさしがただひとつだけの世界の窮屈さ

10月5日金曜日、雨

(写真なし)
お昼に行った板前バルのピリ辛海鮮丼、おいしかった。

ランチメニューはいずれも1000円、支払いは現金のみ。

壁に掲げられたメニューにも、キノコと海老のアヒージョやらなにやらあって、夜の食事もおいしそう。ああ、ゼイタクしたいわあ。

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贅沢といえばお昼に読んだ記事。

cakes でおなじみの林さん、ワイングラスのむこう側から。

彼は飲食店を経営している側。だから一人あたりから食事代を高めに徴収できるようになったら助かるんだろうなあ ……なんてことを、どうしても考えてしまう。

でもそうじゃなくて。
どこで誰が始めるか、という話のはず。

つまり、飲食店や販売店で高いお金を払うようになれば、それはそこで働く労働者の賃金にも反映され、潤った労働者はさらにお金を払えるようになり ……

* * *

そういう単純な幸せループが回ったらいいのに。

でも、こんなのは夢物語。

店に入ったお金は、労働者の懐に還元されない。
なぜか「投資家」、いわゆる株主への配当にまわる。そして株主に、より強くアピールするために、効果の高い投資をしたり絵に描いたきらびやかな事業計画を立てたり、そんなことに使われる。
労働力は今までどおり。それどころかより低く、抑えて回せます! ってね。
そりゃ外国人労働者を入れよとか移民を許せとかケーダンレンだとかいういけ好かないシャッチョさんたちの集いが吠え猛るわけだよ。

かくして労働者は手にした極悪な職を手放すことができず、赤貧に喘ぎ、イライラを募らせ、1円でも安く暮らせるよう血眼になる。

そこに時間も、自由も、ない。

* * *

「お金」という単一価値観のルールが蔓延しすぎたんだろう、とおもう。

なんでもお金に換算できるというシンプルさ。
そりゃあウケる。
単純でわかりやすいものね。

そして、そのルールの中では、富めるものはより富み、貧しきものはより貧しく搾取されるよう運命づけられている。
貧しさから選択の自由はなく、そして持てる時間すべてを差し出して換金するほか、ないからね。

お金がなくても暮らせる。

そういう別の軸を、
信じるに足り、
実際に暮らしていけるだけの新しい価値観を、
生きかたを、生み出せたらなあ。

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