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振り向かないで撮る

仕事と私事の撮影において、両者の決定的な違いのひとつに「振り向くか、振り向かないか」がある。

この2枚の写真は2023/12/08の14:33と14:41に撮ったもの。仕事の移動で住宅街を北から南に向かって歩いた。時間に余裕がないので構図にこだわっているヒマはない。冬のこの時間は太陽光の角度が急になっていて、陽の当たる面積が少ない。右前からの半逆光だ。

必然的に左斜め前の光景だけを撮っていく。真横を見たり、ましてや振り向いたりしない。こうして撮った写真は強い力を持つ。これこそが「その日その時、自分が見た光景」なのである。

もちろんもっと時間に余裕があり、その撮影のためだけに自分が存在しているときは違う。振り向いても撮る。しかし心掛けているのは、最初から一直線にその立ち位置まで進んで振り向いて撮るように心掛ける。これで写真の強さは保たれる。行きつ戻りつはしない。

例外なのは、曲がり角に良い光景があった場合。これは見た場所で撮り、歩を進めて振り向いて撮ることがある。次の2枚の写真がそれだ。カメラを持っていなくても両側から見たいと思うので、これで良いわけだ。

これはこのnoteの最初の投稿「なぜ撮るのか」に掲載した。私としては大好きな2枚で、もし写真展をやる機会があったら、この2枚を最も目立つ壁面の中央に大きく伸ばして展示したい。

ここまでは私事の撮影の話だ。仕事の撮影となるとそれはガラッと変わる。人物撮影なら「この人は左向きが良いな」とたとえ思ったとしても、右向きも寄りも引きも撮っておかなければならない。それは素材としての写真を提供するのがプロだからだ。もちろん雑誌などで「左向きの縦位置と、右向きの横位置」とレイアウトが決まっている場合もある。相手の要求に応じるということである。

30代の前半。とある航空会社の機内誌の撮影をしていた。ある時、夕景が綺麗で有名な海岸の取材撮影があった。確か小さいコーナーだったと思う。夕景の撮影は上手くいった。しかしポジを見るとバリエーションはあれど、いわゆる夕景の写真しかない。編集長は「こういう時はさ!振り向いて1枚だけでも撮っといてよ!構図に凝る必要はないからさあ!」と私に言った。

そこが有名な展望台や公園であれば、私も言われずとも撮っただろう。でもたとえ何でもない場所でも「ひょっとして使うかもしれないから」撮っておく必要があったわけだ。また別の取材でも私が何か生意気なことを言ったのだろう。私を買ってくれていたコーディネーターに「お前の写真集を作ってんのとちゃうねんどー!」と怒られたこともあった。

そんな経験を積んで、職業カメラマンとしてのレベルを上げていった。もう少し年齢がいってくると、若い編集者と取材に行くようになる。すると今度は「もう少し朝日さんの色を出しても良いと思います」などと言われてしまう。年齢による変化もあるけれど、当然ながらAという仕事とBという仕事とで、まったく異なる進め方をしなければならない場合もあった。自分を出しながらも、違う自分になる必要も出てくる。

「好きなことを仕事にする」ことについては、昔も今も様々な人が様々な見解を述べている。私の考えとしては、作家として勝負できるなら素晴らしいことだ。しかし職業カメラマンとしてであれば、ひとつひとつの仕事に職人として達成感を得られたかどうかが全てだと思う。それが「食うための流れ作業」になってしまうと苦しくなるはずだ。

私も自分で言って(書いて)いて、自分で耳が痛い。しかし少なくとも成果を出すことに、ずっとやりがいは感じてきた。58歳になった今では、いわゆる取材撮影はもうない。自分の裁量で出来る仕事を請けるだけである。よく「フリーランスは定年がなくて良いね」などという人がいるが、とんでもない。

私はカメラマンの仕事はボクシングに似ていると思っている。年齢が進むにつれて技術と経験値は上がっていくが、気力体力運動神経は落ちていく。1980年。ジャイアンツの王選手が突然の引退を発表したときに「王貞治としてのバッティングができなくなったからです」と言った。あの時の王さんの気持ちが今ではよく分かるのだ。おこがましいけど。たとえ依頼先からOKが出ても自分が満足できないのである。

働き盛りの良い時期は短い。
専門性の高い仕事では尚更である。

だから「私事」での撮影では、思いっきりわがままに「振り向かずに撮ろう」としているのであった。


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