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地理旅#0「自分の羅針盤をつくる」

僕は中学高校の地理教師。でも、元々は全くといっていいほど「世界」に興味がなかった。特に、中高時代は野球と、点を取るためだけの勉強に明け暮れていた。それ以外の世界には関心を寄せることもなく、キッカケもなかった。

・・・いや、正確に言えば、キッカケは、その辺に転がっていたのかもしれない。帰国子女の友達に、校内の留学案内ポスター。でも、どれも僕の目には映らなかった。

それどころか、僕は地理が好きではなかった。というのも、ただ覚えれば終わりの丸暗記。それの何が楽しいのだろう。山の名前、川の名前を覚えたところで、一体なんだって言うんだろう。

このnoteでは、地理が嫌いだった僕がどういうワケか地理教師というマニアックな職に就き、そして世界にドハマリして、自分の在り方や生き方について考えるに至った軌跡を記していこうと思う。

ひねくれた性格の僕が、地理の教師になったのには、2つのキッカケがある。

一つ目は、大学の授業でのフィールドワーク。

地理と歴史を両方学べる大学に進んだ僕は、迷わず近現代史を専攻する気満々だった。

自分で収穫したリンゴ、忘れらない味。

ところが、大学3年のときに、農村インターンで青森のリンゴ農家を訪れたときのことだ。隣に住んでいる人すら知らない都会育ちの僕は、とことん人々の優しさに触れることになる。毎晩のように、どこからともなく村の人たちが集まって宴が始まる…。

純粋に青森で出逢った人たちが優しかったこともある。だが、積雪の激しい地域では、コミュニティの維持は死活問題なのである。青森の人々は、自然と共存し、自然に協力し合う風土を築いていた。

何の気なしに「いやぁ~青森いいとこっすね~!」と村の若者に話しかけると、苦笑いしながら教えてくれた。

たしかにココは良いところだし誇りを持っている。でも、コミュニティの強さゆえ、彼女ができたら一瞬で村中にバレるし、横並びの「ムラ社会」も色濃く残っていて、窮屈に感じている、と・・・。

なんで、同じ人間なのに、生まれた場所や住んでいる場所が違うだけで、こんなにも見ている景色や、考えていることが違うんだろう。人間は環境に全て決められるワケではないが、ある程度の影響は受ける。紛れもない事実だ。

幕末、「松下村塾」で明治維新後に活躍するリーダーたちに大きな影響を与えた吉田松陰は、次のような言葉を残している。

吉田松陰(1830-1859)

地を離れて人なく、人を離れて事なし、
故に人事を論ぜんと欲せば、まず地理を観よ。

「自分とは?」と問うたときに、地理を避けては通れない。これが、地理学を志すと決めた一つ目のキッカケである。


二つ目の理由は、旅と出逢ったこと。

旅先には「世界」があったし、そして既に僕は「世界」の中にいた。気付いたら旅に魅せられ、今までに約50ヵ国を歩いてきた。

使い古された言葉だが、人生は航海だ。そして、航海には地図と羅針盤が欠かせない。

言うまでもなく、地図がなければ目的地にたどり着けない。でも、変化が激しく先が見通せない今の時代にいっそう求められるのは、自分らしく人生を歩んでいくための羅針盤ではないだろうか。

霧の中で迷ったときに「自分ならこう進む」と信じることができる、たしかなもの。

やりたいことがない、なりたいものがない。それだって良い。でも、「自分はこう在りたい」という姿は、いつも問われていることだ。

旅は、僕を、より大きな世界に連れて行ってくれる。知らないうちに「当たり前」だと思っていたことが、見事に壊される。そして、その時々に「自分はどう在りたいか」と問われるのである。

「我思う、ゆえに我あり」で広く知られる哲学者のルネ・デカルトは、著書『方法序説』の中で、「私は書物の学問をまったく放棄し、世界という大きな書物の内に学問を求める」と述べた。

堅っ苦しそうなこの哲学者は、当時あった学問をすべて制覇したあとで(!)数年を費やして世界をめぐり、見聞を広めた。そして、自分自身と研究の在り方を考え抜いた。

ルネ・デカルト(1596-1650)

新型ウイルスの影響もあって、なかなか世界を感じることができない今だからこそ、地理教師の僕が、旅を通じて見て、感じて、考えてきたことを綴ろうと思う。その折々で、「自分なら、どう感じ、考えるか」と、在り方を考えるキッカケになれば、これほど嬉しいことはない。

「旅して考えたこと」ということで、ところどころ、科学的とは言えない記述もある。客観性に乏しいかもしれない。ただ、「僕」というレンズ越しに見たものも、また一つの世界だ。

それでは、世界と出逢い、自分の羅針盤をつくる旅に出よう。


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