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「ご感想への返信2023」No.05

私は自分の性的指向がどのようなものであるか普段から気になっており、調べていくなかで人それぞれの考え方を分類する必要があるのか疑問に思っていたのですが、先生がご自身の体験からおっしゃっていたように友人や仲間を探すために使うことができるという意見をお聞きして、まだまだ自分の視野が狭かったことに気付かされました。また蛙化現象という言葉をよく耳にしていたのですが、それはリスロマンティックとは違ったものであるということが印象的な内容であり、もっとそれぞれの性的指向について知識を深めたいと思いました。そして、医療従事者の姿勢として、性的少数者への理解よりも他の人と同等に快適な医療を提供するということを今後忘れないでいたいと考えました。例えば、トランスジェンダーの方が医療機関で差別を受けることが高い死亡率に繋がるということにとても驚き、どのような疾患の患者さんであっても医療従事者である限り知っておくべき内容だと感じました。

学生の感想から

「AとBのちがいが整理されている」という「理解」はしよう

 大丈夫だろうとは思いますが、「性的少数者への理解よりも」と文中にあるようなので、改めて「理解はしてね」と書き置きます。私が問題にするのは「理解=共感=同化」と思い込み「同性を好きになれない(同化できない)私は医療者として失格だ」という思考に陥って自信喪失する学生がいることです。「AとBのちがいを整理する」という「理解」はしましょう。

L/G/B/T/Q…などの「分類」は必要

 講義では「アイデンティティに基づく呼称/概念は必要である」というお話をしました。これは納得していただけたようで嬉しいです。例えば「女性」という概念がなければ「女性問題」は無化します。その集団に固有の状況があり、課題があり、問題化もしてきたのに、ないものになる。イシューとして成立し得なくなる。同じ問題に向き合う人々とも連帯できない。

先に進む前に

 これまであなたがどうして「分類する必要があるのか疑問に思っていた」のか、考えの道筋も読みたかったです。「呼び名がなかった時代」をどう想像しているだろう。「呼び名がなくなった世界」を、どんなイメージで想像しただろう。分類がなくなるとはどういう状況だと考えますか。

「分類する必要がない」のは誰なのか

 私が感想から読み取れなかったポイントはそこです。「誰が」分類されるべきではないはずだったのか。「マジョリティとマイノリティの枠組みがなくていい」と思ったのか、それとも「マイノリティにグループは必要ない」と思ったのか。
 もし前者なら立法以外の方法でそれを実現するにはとてもコストがかかり遠大な計画になるので、法律でいい。後者はマジョリティの「考え方のクセとして」よくあるものでしばしば善意から提案されるのですが、性的少数者がそれぞれの個別にあるアイデンティティを捨てるメリットは何でしょうか。私にはそれが見とめられないし、「第一不可能であり」、弱体化して問題が覆い隠されるリスクしかない。実際、その思想は「性的少数者を政治的主体として弱体化させる道筋を辿らなければ」実現できないでしょう。始まりは善意だと分かっています――「杭は出なければ打たれない」という発想です。マジョリティの恐怖感は軽減され、反発は弱まり、もしかすると差別はなくなるかもしれない――なぜなら性的少数者は再び「存在しない国民」にされ差別対象としてさえ存在し得なくなるから。差別が消えるとすれば、一見、その方法は目的に適っているように見える。でもそれは「手術は成功しました。患者は死にました」という結果にしかならない。それは何か学びを残すのでしょうか――人類にとって。とりわけ、マジョリティにとって。

私の「考え方のクセ」

 私は差別問題に対してどう向き合うか心を定める時に、やっぱりどこで折り合いをつけるかについても考えるのですね。わが身は可愛いし深手も負いたくない、「同性婚が遠ざかったらどうしよう」と不安に苛まれる夜もある。だからそれはそれは悩みます。鼻先にぶら下げられたニンジンに食いつきたくなるかもしれない。でも私がマイノリティとして受け入れる抑圧は、別グループの被抑圧者に私がマジョリティとして受け入れさせる抑圧なのです。「マイノリティとして自分が飲み込むことは、マジョリティとして他者に飲み込ませること」なんです。分かりますか。だから私は「これは人類にとって不可逆な機運です」と言い続けるし、一歩も退くべきではないと思っている。あなたが差別をなくしたくて考えたことは、私には分かっている。でもあなたがマジョリティである時にマイノリティに対して求める内容は、あなたがマイノリティである時に受け入れる内容です――私があなた方に教えているのはそういうことです。

まだ「ゲイ」という呼称がなかった頃に起きていたこと

 性的少数者がアイデンティティを示す自称をもたなかった頃、シス‐ヘテロが性的少数者を「分類」しなかったかというと、そうではありません。彼らは好んで性的少数者と自分たちの違いを言い立て、「変態」「異常性欲者」と「分類」し、「オカマ」等の蔑称で呼んでいたのです。権利を言わず名ももたずカミングアウトしなくても――それは現代においても一部のシス‐ヘテロが、むしろ善意から「性的少数者が攻撃されない自衛手段として」性的少数者に推奨する生き方ですが――それで性的少数者に対する攻撃が続くことはあっても、決してやむことはありませんでした。「やつらを見ろよ。権利も主張もせず謙虚に生きている。立派じゃないか。もう悪く言うのやめようぜ」とはならなかった。テレビでも学校でも一日としてゲイを嘲笑する言葉を聞かなかった日はない、そんな時代が続いたのです。他の点では尊敬せずにいられない作家の本や、教師や家族からの言葉の中にもゲイを侮蔑する気分が濃密に含まれているのを感じ取りながら、私も育ちました。そんな私は、おとなしくサンドバッグになっているのは謙虚さではないと考えます。

 私の謙虚さは、シス‐ヘテロを「何を言っても分からない愚かな人々だ」と考えないところにこそある。シス‐ヘテロを諦めず、いつか「気に入られるように私がおどけて見せたら傷つき、見下げ果てるなと怒り出す友人」として再会できると信を置き続けるのが、私の謙虚さです。分かりますか。

シス‐ヘテロ・プライドが掲げられる日

 シス‐ヘテロは、自らを「ノーマル」と呼び、唯一の自然的な存在と空想し、無二のモデルとした。人類は、歴史的にはそういうルートを辿って来ました。性的少数者には公正な(現在考え得る範囲でなるべく公正な、程度の意味ですが)呼称が必要だった。アイデンティティ/自我同一性を何か特別な自意識と曲解し「主張」を嫌う人々はいつも一定数いるけれど、順序として先に「ノーマル」という自意識を必要としたのはシス‐ヘテロの側であり、例に挙げたような蔑称で呼ばれた性的少数者が、新たに自らを呼びならわす名を求めたのは当然のことでした。もちろんそれは皆さんにとってはあずかり知らぬ昔の話ですが、それなりのいきさつがあって現在があるということなのです。皆さんが考えるべきは「差別されないためにどう振舞えばよいか性的少数者に助言すること」ではなく、「シス‐ヘテロが蔑視する対象を他者に見出さなくても生きられる思想」です。それがシス‐ヘテロにとって真のプライドとなる。完成したらぜひ私に報告して下さい。私がそんな喜ばしい日を見逃すはずもないけどね。「LGBT」だけではない性的少数者たちがアイデンティティを得た時と同じように、私は喜びます。


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