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「ご感想への返信2023」No.00 

 このマガジンは「某大学での講義後に学生から送られて来た感想や質問に対するフィードバック」で、そのアーカイブです。性質上どうしても授業に出た学生以外には分からないやりとりになるので、こんなのがどんどん流れて来るのは困るなあと思う方はこの機会にフォローを外していただくのも一案かと思われます。また記事は諸事情により予告なく消す可能性があります(マガジンごと消える場合もあるかもしれません)。ご了承ください。    
                             (RYOJI)



ご感想への返信 はじめに


 非常勤講師のRYOJIです。「|性的少数者と医療」2023年5月23日の講義では、寒ささえ感じる雨の日にお疲れ様でした。このフィードバックの完成は私次第なのですが、すっかり遅くなっていることお詫び致します。講義内容があまり遠い記憶にならないうちにお渡しできたらいいなと、願っていたのですが。とにかく、書き始めます。

 講義中、「デミロマンティックの 『デミ』 って何だっけ?」 と講師の私が忘れるというハプニングがありましたが(16年間やってきてもまだ緊張します)、「半分」という意味でしたよね。それゆえデミロマンティックは「半性愛」と訳されます。「心理的に強い絆や結びつきが構築されている相手にのみ恋愛感情を抱く」デミロマンティック——私は「自分にもそういう感覚がある気がする」と教室で言い、それは嘘ではないけれど、考えてみれば「それが常態」ではないし、関わりが遠く容易に分かり合えない相手にも(むしろ苦手な相手にも)憧れなのか恋愛感情なのか性的欲求なのか分からない感覚を覚えることがあります。今度はこの「憧れとも恋愛感情ともつかない思いを抱く瞬間がある」という一時的な状態を拡大解釈すれば、「自分が他者にいだく好意が一般的に言うところの恋愛感情なのか友情か分からない【恒常的】状態」クワロマンティックが理解できそうな気がする。しかし私の「恋か好意か分からない」状態は彼らとはちがい、一時的なモラトリアムなのです。そして私は日ごろ明確に「友情と恋愛感情」を別個のものとして感じている。――しかしそのように自分の心を覗き込んでいくと、他者に(他者でしかなかった誰かに)「少し分かる」「少し似ている」「なんなら同じかも」と親近感をおぼえる瞬間がいくらでもあるものです。
 
 皆さんにとってもセクシュアル・マイノリティは遠いだけの存在ではなく、もしかしたら自分と重なり合う部分もあるかもしれません。でも同時に(私が例えばデミロマンティックに相違点を見つけたように)「やっぱりちがうな」と思う部分も発見するかもしれません。そのように「遠くて近い」あるいは「近くて遠い」性的少数者ですが、今回の授業を機に、性的少数者を身近に感じていてくれたらいいなと思います。
 
 しかし座学は準備運動です。私が他者に(例えばデミロマンティックに)自分の経験から似た感覚を探して、その「他者を理解できたような錯覚」に陥り、あるいは「親しみ」を覚え、「人が考えていたよりずっと複雑な存在だったことに心打たれる」というプロセスを一種高揚感と共に味わい、「理解できた気がしている」時には、「いやまだ理解できたわけじゃないぞ」と私は自戒しなければならない。皆さんもそうです。たった180分の座学は、皆さんが「関心をもち、探究し続ける動機にするため」にあり、キッカケをつくる以上のことができない。これから様々な「他者」――それは性的少数者に限らない——と出会い、多くの時間を共にする経験の中にこそ実践的授業(本番)があるのだといえます。喜び合い、助け合い、高め合い、時には傷つき合いながら、他者と(またあなた自身にも)出会っていくのです。
 
 知識を得る目的は、他者やあなた自身を決めつけるためではなく、むしろ「決めつけないために」、「決めつけから脱するために」、「決めつけられる事物など何もないと思い至るために」ある、ということです。例えば私は講義中に「シス‐ヘテロ」(シスジェンダーであり、ヘテロセクシュアルである人≒性的多数派)について、そのヘテロの面を「ゲイではないというだけの存在ではないのだからノンケ(そのケがない)と呼ばれるべきではない」という考え方を示しましたが、シス‐ヘテロも多様な在り方の一部であり、丁寧に個々の思いや事情を「見つめていく」べき対象です——もう語り尽くされたように/新しく知ることなどないように/「解決済」とラベルを貼ってファイリングするために、知識を得たのではないのです。「語り尽くされたものなどなかった」と知るために知識を得たのです。そのことを心に留めて、これからの人生を迎えて下さい。いま患者と出会う準備が整ったように感じていても、また自信を奪われたように感じていても、それはシミュレーション上のイメージに過ぎない。皆さんはこれから多くの「他者」存在と出会い、一緒にこの社会で暮らして行くのです。授業がそのための準備運動であったと、それほど遠くない未来に思い返すことでしょう。

 皆さんの感想はどのようなものだったでしょうか。もし性的少数者についての授業を受けて、比べて自分のセクシュアリティが説明不要の/公然とした/ありきたりなものだと感じているなら、あるいは、それはあなたがあなた自身に向けた「偏見」や「抑圧」かもしれない。他者との境界は明確になったのか、それとも曖昧になったのか。他者と出会う準備ができたように感じているのか、それとも自信をなくしているのか。皆さんからのリフレクションペーパーには何が書かれているのでしょうか。授業が終わってからのこの時間が、私にとっては楽しみでもあります――さて準備はできましたか、こちらはOKです。それでは、あの日の授業の続きを始めましょう。きっと更新遅いけど、我慢強くお付き合いください。
 
                                                              RYOJI 「カミングアウト・レターズ」 太郎次郎社エディタス(2007)

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