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ボツになったコピーの話

 同僚男性と料理は気分転換になりますよねという話をしていた。気分転換の為に料理できるなんていいご身分ですね、と女性から言われても仕方ない会話だ。だが、一方で(既得権益という文脈で批判的にしか語られない)「マジョリティが奪われていた経験」について、マジョリティ自身が語り合うのは大切なステップでありプロセスである。解放は単なる義務や大変さの移し替えではいけない。義務/荷物とされていたものに他の意義を見出すことは重要である。

 「男子厨房ニ入ラズ」と教える風潮がまだあった時代に生まれたシスジェンダー男性ふたりが「料理っていいよね」と発見を語り合う時、やはりそこに自省もなければならないと私も思う。うん、無邪気じゃいられないよな。ただ私は、それに加えて「マジョリティが奪われてきた経験」に思いを馳せることも必要だ、と言うだけだ。既得権益は同時に「既得【損】益」でもあったかもしれない。例えばかわいい盛りの子どもの寝顔しか見たことがないという父親が昔は沢山いたけれど、そんな働き方しか許されないのはおかしい。


 あれは2010年くらいだっただろうか。男女共同参画事業に少し関わっていた時、私が作ってボツになったコピーがある。

「女たちから台所を取り戻せ。女たちを台所から取り戻せ」

 気持ちいいくらいボツになった。およその理由は分かる。女性が男性から台所を奪ったわけじゃないしそう思うなら事実誤認どころか愚の骨頂だし女性は男性のモノじゃないし女性の解放は男性のトロフィーになる為じゃないですよね、分かってます。ただ運動の目的によるけど、譲れない部分はあるかもしれないけど、コレ悪くないんよね。「女たちから台所を取り戻せ」「女たちを台所から取り戻せ」と一枚のポスターにあるのは悪くない。あるいはこんなコピーと対で置かれたなら、真意は少し明確になるのだろうか。

「男たちから社会を取り戻せ。男たちを社会から取り戻せ」


 女性にも自らの復権だけでなく「夫や息子を(過労死させる会社などから)取り戻す」という切実な思いがあるはずだ、それもまた必死な思いとしてあるのなら、そこは書いていいはずだ。失われていたもの/奪われていたものという話は、二者対立の構図のみで捉えられがちだけど、そこから始まって進んで行くうちに、別のところにも思いがあったと「見えてくる」瞬間がある。あれば、その運動は幸福だ。

 (先の文章で取り戻すのは台所、後の文章で取り戻すのは社会。前は主体が男性で後は女性が主体。どうしても温度差がある。自らも奪われていたものに男性が気づけるか。奪われていたのは男性もそうだと女性が思えるか。――無理かもしれない。でも両面みたい、そこまで進みたい。どうすればいい、どう書く、考えろ)

 15年も前に自分が書きつけたコピーにノイズを探す。どう書いたらよかったんだろう、雑念をそぎ落とすには、と頭の隅で未練がましく考え続けている。疎まれがちな社会運動だけれど、いつもため息と体温の不在を言葉にするところから始まる――そこが好きだ。不在だったのはその人そのものか、心か。しかし「あなたが横にいてくれたら」と願う人がいたんだ、と思う。あれはどこにも転がって行かないサンカクなんかじゃなかったよ。ないはずなんだ。



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