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お金の話をしよう。

お金の話というのは、古今東西を問わず、なかなかにデリケートなテーマである。「ファイナンス」という言葉が日本で当たり前のように流通し始めたのも、そう遠い昔ではないはずだが、今は資産やライフプランについてしかるべき指針を持つことはむしろ、人生に向き合うという点で、意識が高いことの要件のひとつとなっている。お金の話がお茶の間化する。その背景には、インターネットが登場し、ネットショッピングが当たり前となり、決済のパターンが増え、キャッシュレスが浸透し、数え切れないほどのネットバンクが登場し、クレジットカードがポイント付与率を競う、そんな狂騒もあってのことだと考える。もはや、お金の話はタブーではなく、天気や野球の試合結果を話題にすることと同列である。

私の家はとても躾に厳しかった。特に、長男である私は、ずいぶん前時代的な教育で育ったと、後に知ることになる。
旧家の子ながら三男坊らしい鷹揚な父と、武士の家系で謹厳実直な母。父は24時間仕事、仕事の「リゲイン世代」であったから、躾は母の仕事となる。そういう時代だった。
私は、おそらく裕福な暮らしをさせてもらった両親に、深く感謝している。あの時代でも、子供二人を私立の一貫校に通わせ、大学まで出すのは経済的にも大変だったことと思うが、それでも爪に火を灯すような暮らしをしたことはなかった。

我が家では、とにかくお金の話はタブーであった。お金ももちろんであるが、物欲を醸し出すような言動や、何かを求めるエネルギーにつながるようなきっかけは徹底的に排除された。どのような状況下でも、私たち子どもの前で、両親がお金の話をしているのを聞いたことがない。家族を不安にさせない、という大人としての配慮もあったと思うが、お金というタブーに触れさせたくないという思いが強かったのではないかと思う。

吝嗇であったわけではない。むしろ、望んだことでしてもらえなかったことを数え上げる方が難しいくらいである。しかし、その後ろで動いていたお金は一切私には見えなかった。ほかにも、たとえば「玉の輿」であるとか「へそくり」だとか「安月給」といった、およそ、お金にかかわる下衆な言葉は決して使うことが許されなかった。ちょっと反抗的に「安物」などという言葉を使おうものなら、「そんなことを口にしてはいけない。あなたが自分で稼いだお金は一円もないのですから」と厳しく諭された。
お遣いに行く時を除いて、お金に触れる、ということは許されなかったし、まして親の財布に視線を遣ることさえ憚られた。

だが、お金の大切さを教えてくれなかった訳ではない。ただし、直接的ではなく、それをたとえば人道や博愛、労働や教育が生む「なにか」という形に置き換えることで、お金以上に大切なことがあることを教えていたのだと思う。あのバブルの時代に、楽して稼いだお金はすべてあぶく銭だと言って、それをアテにするような生き方はするなと教えられた。正統な中流を自認し、清く正しく生きることを旨としてきたから、アクの強い成金趣味を嫌った。ある意味で、「ベニスの商人シンドローム」のような人だったとも言える。

重ね重ね、だからといって質実剛健な暮らし方を強いられていたわけでは断じてないのだ。程度については上を見ればきりがないのだろうが、少なくともあの頃私や弟が望んだことで、叶えてもらえなかったことなど殆どなかったのだ。お金の心配などしなくていいの、それをするのは親の仕事。あなたたちは、お金のことなど一切考えないで、いますべきことに一所懸命でいなさい、というのが母の口癖であった。

母の教えは武士の躾そのものであった。それが大人になってみると、清廉潔白な生き様が時代錯誤と重なったとき、それは必ずしも現実的な生きる力とはならない、と思い知らされることになった。だがそれも、受け手の問題でもあるはずで、弟はまっとうに銀行員になったのだ。私にとって、武人の美しい生き様と、それを生き続ける母の存在は絶対であったのだということなのだ。

かようであったから、いつしか私にとってお金は「汚いもの」「穢れ」と感じられるようになった。それは、長じても人並みになることはなかった。学生の頃まではあまりそう感じることもなかったが、社会に出るとお金の話をすることができないから、仕事でもずいぶん損をしたと思うし、ほんとうの意味で経済活動の中にある社会人、という実感を持つことができなかった。お金のことを話題にするとき、自嘲的になってしまう。お金の話ばかりする人を軽蔑するようになった。そうして、お金を遠ざけることでかえって己の自尊心だけは満たされていく。お金に頓着しない生き方こそ、君子のあるべき姿と嘯き、持っていても持っていなくても、義を見てせざるは勇なきなり、とばかりに、困っている人に寄り添おうとしてしまう。
お金が汚い、という解けない暗示の中にあるとき、お金を遠ざけて持たざるものの救済へと突入していくとき、一種のギャンブル中毒のような、破滅願望に近いスリルに陶酔したものだ。

しかし、である。私は自分のようなお金との関係、もっといえば生き方は、やはりとても生きづらいと感じる。自分の子どもたちにそんな浮世離れした経済感覚を持ってほしいと思わないし、まさにファイナンスについて常識的な知識を持っていてほしいと願っている。
私自身は、この世の人とは思えないほど馬鹿げたロマンチシズムに傾倒していくような生き方をしてしまう危うさを持つ(無論、その大部分は「お金」という、この世の原則を規律している原理との縁があまりに遠いところに原因があるのだ)一方で、きわめて現実主義的な部分もあって、たとえば、親の教えに感謝する一方で、そのすべてを適切と思うようなことはしない。状況や環境、時代に応じて、より良いと思う方法があるなら、躊躇することなく前例を覆す。

あのお金という言葉に神経質な若者が、今では家庭内でお金の話をするおっさんになった。お金の多寡ではなく、それがどのように、どのような豊かさにつながっているのか。そういうことも含めて、金がなければ金がないや、と平気で言い、子どもがお金について疑問を持ってもひとつひとつ、私に分かる範囲で誠実に答えるようにしている。お金はタブーでなく、穢れでもなく、美しい労働の対価であり、人生において欠かせないものなのだ。
もちろん、お金がすべてではないこと。お金の前に掃き清めておく道があること。お金にクリーンであることの大切さ…母の教えのエッセンスはきちんと残している。たとえ親のものであれ他人の財布には、善意であっても勝手に手を付けない、お年玉の中身をすぐに確認するような人間になるな、値段でことの良し悪しを語るな、対価を求めて善行を施すな、安物だから…などという言葉を口にするな、李下に冠を正すな、云々と口うるさい方ではあると思うが、ときどき我が子が生意気を言ったり、羽目をはずしたり、それで嗜めたり。
そういう中で、親も子も成長していくものだと思うから、お金とは長いことよい関係を築けなかった私でも、子どもとの学び直しを通じて少しでも失った常識を取り戻すきっかけになればと、今日も財布の底を覗きながら、ああ、今日はおねだりはなしだぞ、と苦笑いしてみせたりするのである。さぁ、家族でお金の話をしよう。(了)

Photo by QuinceCreative,Pixabay


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