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弁当は鮭弁が9割|週末セルフケア入門

弁当どうするか問題

 弁当どうする? という話をします。先に言っておくと、結論は鮭弁ですが、サバ弁になる可能性もあります。

 私が考えるのは、基本、やくざな方法です。弁当を通じて、セルフケアを考える。毎日の弁当づくりにお金と手間をたっぷりかけられる人は、ちゃんとした料理書が参考になると思います。

 以前『「考えない自炊」のシステム』を書きました。自炊は大変だけど、外食ばかりもつらいとき、どうすればいいのか。答えは、基本のメニューを決める・献立を考えることをやめる・週末のリソースを投下して作りおく、というものでした。

 弁当もそれでどうか。基本の弁当を決める。具を考えるのをやめてしまう。作っておいたものを詰める。つまり「考えない」弁当にする。
 
 何弁にするのか。ここで個人差が出ます。「食べ飽きないもの」を選ぶ必要がある。

 私は鮭弁を選びました。鮭はスーパーで一年中買える。冷凍可能で安い。飽きないし、どこか美しさすらある。

 弁当箱に冷やご飯を敷き、焼き鮭をのせる。好きなのは腹の部分。くびれのある箇所です。脂の乗った端っこが旨い。それから梅干しをひとつ。基本的にはこれで完成です。

 おかずを足すなら、卵焼き。甘くないのが好きです。ほうれん草の胡麻よごしも合う。とはいえ、鮭、米、梅だけで完成しています。ちょうど汁(具)、飯、香になっている。

 しかし、鮭弁ばかり食べるのはちょっとストイックな感じもします。味噌汁とちがって、栄養バランスも偏るのでは? 鮭弁にはこういうツッコミどころもあります。

自分に合った食い物

 鮭弁ばかり食べていたら、あだ名が「鮭弁」になる可能性もあります。でも大丈夫。どうせ、毎日はつくれません。夕食の残りを詰める日もあれば、外でカツカレーを食べる日もあります。

 毎日鮭弁だとしても、何がいけないのか? 栄養バランスだけで食事を考えるなら、ミドリムシを摂取していればいいだけの話です。それよりも、いくら食べても飽きない、自分に合った食べ物を見つけることが大切だと思います。どういうことか?

 カフカに『断食芸人』という短編小説があります。主人公である断食芸人は、檻の中で飲まず食わずでいる芸を披露しています。見物人は「うまく隠れて食べているのだな」と考えますが、彼は実際に何も食べていないようなのです。断食の果てに、彼の身体は手の平におさまるほどにまで縮んでしまうのですが、息を引き取る前に、決定的なことを言います。

「自分に合った食べ物を見つけることができなかった。もし見つけていれば、こんな見世物をすることもなく、みなさん方と同じように、たらふく食べていたでしょうね」(『断食芸人』カフカ 著/ 池内紀 訳、白水社、2006年、120頁)

 つまり、断食芸人は「自分に合った食べ物」を見つけられなかったがために、仕方なく断食をしていた。この小説では「きょう、何食べよっかな」という逡巡が、ひとりの人生の長さにまで引き伸ばされていると読むこともできます。

 「自分に合った食べ物」は、個人のあり方みたいなものに近いんじゃないか。それは、栄養や正しさとは関係のないレベルで存在しており、論理的なものではない。私にとって、鮭弁はそういうもののひとつなのです。

 そもそも、毎日おなじものを食べるのは、日本以外では普通のことです。これだけ毎日ちがうものを食べているのは、日本くらいだという人もいます。たとえばアメリカでは、ランチは毎日ピーナッツ&ジェリーサンドだったりする。

 弁当には栄養バランスも重要ですが、それほど手間をかけられない以上、自分に合った食べ物にすると割り切ってみてはどうか。

欲望をあきらめない

 ときどき、自分が食べたいものを献立レベルで言語化できている人がいます。「今日はサーモンの刺し身とポテトサラダをきゅうりの浅漬けと一緒に食べたい」とか「ロイヤルホストのオニオングラタンスープとミックスグリル、ライス少なめで」とか。とにかく欲望の解像度が高い。自分に合った食べものとは、自分の欲望に合った食べものなのだと思います。

 では、鮭弁は本当に私の欲望なのか? たんに、近くのスーパーで年中買えるから鮭を好きになっただけではないのか。雑誌の弁当特集でも読んで、無意識に影響を受けたのではないか。

 ここまでくると哲学的問いになってきます。鮭弁が食べたいという欲望は、もともとは私の欲望ではなかったかもしれない。誰かの影響を受けたものかもしれません。

 でも、まあ鮭弁ならいいかなあという感じがします。ハンニバル・レクターのように、もっと反社会的なものである可能性もあった。鮭弁を好きになった自分の歴史をみとめて、鮭弁を主体的に選びなおすことにしましょう。

 鮭弁を食べることが誰かを傷つけることだったら、悩みます。セルフケアを考えると必ず「のび太をぶん殴るのがオレのセルフケアなんだよ」というジャイアンみたいな人が出てきます。
 これについては「人を殴るのはダメだよ」でいいと思うのですが、「身体を壊しても鮭弁を食い続けたいんだよね」という人の存在は、正義と自由についての問題になりそうです。

 最近、健康管理アプリがずいぶん発達してきました。食事のカロリーや栄養を計算して、最適な献立を提案してくれるたぐいのものです。このまま進化すると「ここで鮭弁を食べると、がんになる確率が何%上がります」みたいになるかもしれません。

 これについては「いや、鮭弁がオレのセルフケアなんだよ」といって、ときどき無視することはアリだと思っています。欲望をあきらめない。

 「食べたい」という欲望は、身体の状態だけでなく、これまで経てきた人生の経験があいまって生まれているはずです。だから、身体の声だけを聞いても、正しい答えは出てこない。複雑なことを複雑なまま考えることをやめなければ、鮭弁を食べた方がいい場面はあるはずです。 

セルフケアのチャンス

 鮭弁について熱弁してきましたが、ぶっちゃけ、飽きるときは飽きます。

 そこでサバ弁です。いま、弁当は鮭弁が9割ですが、ある日の気分で「あ、今日からサバ弁を食べよう」と変化してもいい。自分は日々変化している以上、「自分に合った食べ物」も一定ではありえません。

 私はうまいものを食って生きていくし、その欲望はゆずらない。だからこそ、献立そのものはふまじめに、適当に変えていく。

 セルフケアというと、まじめに規律を守るみたいに思う人が多いのですが、私はあんまりそういう風にはとらえていません。というか、日本で働いて暮らしている時点で、すでに十分すぎるほど規律を守っていると思います。反対に、自分の「好き」「うまい」「ラクだ」などを求める機会は不足しているのではないでしょうか。つまり、セルフケア・チャンスが少ない。
 
 ストイックにサウナ・筋トレ・禁酒をしてもいいのですが、そういう修行っぽさを経由しなくてもセルフケアできるんじゃないの? と思います。「セルフケア道」みたいなものが楽しいのも分かりますが、私は意識が低いので無理です。「鮭弁を極める」みたいな方向にはいきません。

 健康はそこそこに保ち、うまいものを好きなだけ食べる。欲望は大切にするが、やりすぎず、突き詰めない。必要なのは、そういったセルフケアの「塩梅」を見つけ、その機会をゆずらないことだと思うのです。



読んでいただいてありがとうございます。