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陰謀の記憶と騒乱の予兆 「龍田」成立の時代

「龍田」のシテは龍田姫、前半は四番目モノ、後は龍田明神が出現する脇能、神の能です。神様の能は格別なストーリーもなく、美しい謡と舞で安寧を言祝ぎ、繁栄を願うものが多いようです。この龍田もまたそうしたひたすらに美しい能のようでありながら、同時に能にはよくあるように、何か別のことを隠しているかのような思わせぶりな道具立てが仕込まれているようにも見えます。

 最初に引かれる

 龍田川 もみぢ乱れて 流るめり わたらば錦 なかや絶えなむ

の歌は詠み人知らずですが、実は奈良帝(ならのみかど)、すなわち平城天皇の御製であると伝えられています。平安遷都を行った桓武天皇の長男である奈良帝は第五十一代平城天皇として即位、「薬子(くすこ)の変」として知られる政争の主役となります。薬子、こと藤原薬子は奈良帝の皇太子時代にその後宮に上がった妃の母親ですが、娘を差し置いて奈良帝の寵愛を受け、乱倫を嫌った桓武帝の怒りでいったんは追放されます。しかし奈良帝の即位とともに宮廷に戻り、尚侍として絶大な権力を握ったとされます。三年後、奈良帝は病を得て弟・嵯峨帝に位を譲り、薬子とともに平城京に移り住みました。この時、皇太子に立てられたのが奈良帝の三男である高岳親王(たかおかしんのう)でした。しかし、奈良帝と嵯峨帝の間に争いが生じ、それに乗じて薬子が権力奪還を企て、ついには奈良帝が東国で挙兵するという騒ぎになります。しかし蝦夷征伐で名高い征夷大将軍坂上田村麻呂が鎮圧に乗り出し、奈良帝は降伏して出家、薬子は自害して果てました。この歌が詠み人知らずとされたのはスキャンダラスな帝の歌を公的に取り扱うことを避けたためかもしれません。この奈良帝の孫には美貌と才智とスキャンダルで平安朝を代表する在原業平、行平の兄弟がいますし、父である奈良帝の失脚で皇太子の地位を奪われた高岳親王は出家して空海の高弟となり、仏道を極めるために長安へと渡って、さらに天竺を目指して消息を絶ったという情熱の人でした。個性豊かで自己主張の強いキャラクターが活躍するキナ臭くもドラマチックな時代の中でも、ひときわ悪目立ちしている帝の歌を国土の安寧と繁栄を願い言祝ぐに当たって最初に持ってくるのは不釣り合いにも思えます。

後半に

 龍田の川の 水は濁るとも和光の影は明けき 真如の月はなほ照るや 

 龍田川紅葉乱れし跡なれや

と、高岳親王の法名「真如」が謡いこまれているのは偶然でしょうか。もう一つ引かれている

 このたびは 幣も取りあへず 手向山  紅葉の錦 神のまにまに

はよく知られていますが、陰謀によって失脚させられた恨みからあまたの政敵を憑り殺し、御所に雷を落として帝を震え上がらせたという平安朝きっての祟り神でもある菅原道真の歌です。そして、神楽の中で謡われる

もみぢ葉散り飛ぶ木綿附鳥

の「木綿附鳥」とは「ゆうつげどり」と読みます。のちには「夕告鳥」と文字が変換されてどことなくロマンチックに感じられますが、本来は古代の神事で、世の乱れたとき、鎮めるために鶏に木綿[ゆう]をつけて、都を囲む関所に祭ったという「四境の祭」、またはその木綿をつけた鶏を指します。騒乱を予知し、災いが及ばないことを願う不安と祈りが謡いこまれているのです。

 この「龍田」が成立した室町中期は陰謀と騒乱の時代でした。作者とされる金春禅竹が生まれたのは1400年代初め。1392年には南北朝の争乱がようやく終わり、勘合貿易がもたらした富が商人や貴族、武士を潤して華やかな北山文化が栄えます。しかし、混乱は鎮まらず、京都周辺でも一揆が頻発、干ばつ、飢饉、天然痘の流行、大地震も発生しています。能には源平の戦、平家物語に想を得た作品がたくさんありますが、歌学や神道、仏教にも造詣が深かったという金春禅竹が生きたのは、源平合戦のころよりさらにカオスで血なまぐさく、猜疑に満ちた婆沙羅の時代でした。1441年には独裁的な恐怖政治で疎まれた将軍足利義教が猿楽鑑賞中に臣下によって暗殺されるという嘉吉の乱まで起こります。金春禅竹の岳父にあたる世阿弥は、晩年この義教に迫害され佐渡配流という憂き目を見ていましたが、義教の死によって都への帰還がかない、禅竹に看取られ亡くなったとも伝えられます。そもそも世阿弥が義教に疎まれた始まりは観世座の跡取りを、甥であり義教お気に入りの音阿弥ではなく、才能を見込んで娘婿とした金春禅竹に、と主張したためとも言われます。室町幕府とともに栄えた猿楽ですが、同時に主流の継承を廻って将軍の思惑や権力闘争に激しく翻弄されました。芸事と政治は切り離せないものです。芸能は祭祀とともに生まれ、祭祀、すなわち祭りごとは政りごととして政治へとつながっていきます。芸能は人の心を奮い立たせるものであり、ホメロスの時代から戦や政治を大きなテーマとし、権力を後ろ盾に発展し継承されてきたのです。世阿弥元清も金春禅竹も太平の人ではなく、修羅の世を呼吸していました。嘉吉の乱による義教の横死を二人はどのように聞いたのでしょうか。

 そして、室町の世を通してくすぶり続けた騒乱の火種は1467年、応仁の乱によって紅蓮の炎となり、時代は戦国へと飲み込まれていきます。1470年前後に亡くなったと伝わる金春禅竹が応仁の乱の始まりを目撃したかどうかはわかりませんが、地獄の釜の蓋が再び開き、乱世へと向かう世の動きを中心に近い位置で感じ取っていたことでしょう。晴れやかに美しい龍田の曲はこうした時代に誕生したのです。

 華やかな言祝ぎの言葉を連ねた裏に闘争、挫折、混乱、騒擾の記憶を秘めた歌の数々を引いたのは無意識のうちなのか、何かの暗号なのか、その答えは私などの想像が及ぶよりはるかに深く遠いところにあるようです。

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