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20代女子による今まで知らなかったお茶の歴史🍵♡

1月16日(火)
今日ははじめての座学の日でした。座学はZOOMで椿の会創設者の土屋るみ先生から1対1で2時間みっちり教えていただきました。京都で4年間茶道のお稽古をしてきたけれど、知らなかったことがいっぱいで、おもしろい発見と人生の生き方について考えさせられるところが多かったので、歴史やお茶に興味がない人もさらっとのぞいてみてくれたらうれしいです♡

【奈良時代・平安時代】

まずくてお茶を飲む習慣が根づかなかった時代

815年留学僧(永忠)が嵯峨天皇に「煎茶」を奉御したのが、日本で最初にお茶を飲んだ記述として残っています。その後空海や最澄などの留学僧が唐(今の中国)から固めたいわゆる中国茶を持ち帰るも、美味しくなかったため普及しなかったそう。私も旅行会社時代、先輩が中国からお土産でお茶を買ってきてくださったんだけど、苦すぎて飲めず・・・実家の母にあげたので気持ちわかる~!!!と納得。

【鎌倉時代】

健康のために飲むものとして普及した時代

臨済宗の建仁寺を開いた栄西が、現在の抹茶と同じ用法と飲み方を書いた『喫茶養生記』というお茶の薬としての効果を説いた医学書を刊行。その時代、病気を治す手法は祈祷が主流だったので、薬としてのお茶は健康飲料として大流行したそう(抹茶だと飲みやすいもんね♡)。また、禅宗の中で[禅院(ぜんいん)の茶礼(されい)」と言って修行中の僧が眠くなった時にお茶を飲む儀式として取り入れられたそう。その時の様子が現在も年に1度の「四頭茶会」として建仁寺で体験できるそうです。行ってみたい・・・!!

【室町時代】

お茶が豪華絢爛ブランド化・ばくち遊びに使われた時代

お茶が遊芸化して[闘茶]として武士の間で大流行![闘茶]とは賭け事のようなもので、50杯~100杯のお茶を飲んで本茶か非茶かを当てるゲーム。そのお茶会で1番当たりが多かった人に、その時代最も高価なものとされていた唐物(中国製の器や茶道具)の景品が渡されていたそう。ただ参加する人は自身の持つ高価な唐物を持参して、負けたらそれを勝者に景品として渡していたので、財をなくしてしまう人々が多発!政府が闘茶禁止令を出しても、闘茶はなくなることがなかったそうです。「日本人が賭け事とブランドものが好きなのはこのころから変わってないのね」と先生が笑っておられました。
※本茶・非茶とは:鎌倉時代に栄西禅師が宋から持ち帰った茶の種を京都の栂尾高山寺に植えました。現在では、この場所は日本最古の茶園とされ、「日本最古之茶園」の碑も立てられています。そこで栽培していた栂尾(とがのを)茶を本茶、それ以外を非茶としていたそうです。


〈侘び茶の成立〉

闘茶の大流行が約50年続いたのちに、だんだんとこの遊びに飽きがではじめます。当時の将軍足利義正がお世話係に何か面白い遊びはないかと聞いたところ、お世話係が将軍に紹介したのが、侘茶を確立した村田珠光でした。
ここから侘びの精神を大切にするお茶がはじまります。

〈村田珠光とは〉

(1423年~1502年)
現在の奈良に生まれ、寺で修行僧として学んでいましたが、闘茶にはまってしまい寺から追い出されてしまいます・・・!その後能阿弥などと出会い、心を入れ替え再度お寺に戻ることを決意した村田珠光を受け入れたのが、国民的アイドルの「一休さん」だったそう。私的にこんなところに一休さんがでてきてびっくりでした!(笑) 能阿弥や一休さんから教えを受けた珠光は、その時代の歌の流行りだった”侘び”を茶道に取り入れることを思いつきます。現代の私たちは、茶道が侘びの精神を代表しているように思ってしまいますが、和歌から来た精神だったのですね。そのため、珠光は茶道に今まで使っていた完璧な唐物ではなく、ちなみに”侘び”とは完璧なものではなく、完璧ではない人の世の儚さや無常を美しいと感じる日本の美意識です。例えば完璧な満月ではなくおぼろ月をめでたり、満開の花ではなく、散り際の桜をめでたり。完璧を求める韓国人や中国人の強さを、日本人はここで手放して、優しさと気遣いを育んできたのかな~なんて考えたりする旅行女でした。

【安土桃山時代】

政治にお茶が使われた時代

戦国時代、家来と主人は「御恩と奉公」の関係で繋がっていました。要するに褒美をたくさんくれる主人への恩として、家来が奉公という形で返すという仕組みです。このため、褒美をたくさんできる力を持った主人に家来が寝返ることはざらにあったそう。今でもお給料の高い会社に転職したりしますよね。そんな感じです。その褒美として1番高価なものが「領土」でした。ただ領土は限りがあるため、武士たちは戦をして領土を奪い合い、日本国内に取る領土がなくなると中国に領土を取りに行ったりしていました。
でも戦も領土も限界があるため行き詰まりそう・・・。
そこで、かの有名な織田信長が考えたのが、今まで最上級の褒美だった領土=お茶のブランド化です。今まで領土を与えていたところをお茶を行って良い権利や高級茶道具を与えることに変更しました。ちなみに秀吉は信長が生きている間、茶道をすることが許されず、ずっとお茶へのあこがれに胸を焦がしていたそう・・・!かわいそう(*_*;

千利休とお茶

今井宗久・津田宗及ら先輩とともに三宗匠として信長に仕えたのが茶道の開祖として有名な千利休です。千利休は村田珠光が侘びさせたお茶を、さらに侘びさせた武野紹鴎の弟子としてお茶に携わります。

図にするとこんな感じ。
村田珠光(豪華だった茶を侘びさせる/ちょっと使い古した唐物使用)

武野紹鴎
(さらに侘びさせる/日本の備前焼きなど質素なものを使う)

千利休(侘茶の簡潔化と大成/多くの人に普及するため、わざわざ揃えたものではなく”今”切ってきた竹を使うなど”今”をモットーに。)

信長の死後、秀吉のもとで60歳から10年間秀吉からの切腹を命じられるまで茶道を大成します。千利休は生まれが堺の商人であったため、当時の階級社会の壁をなくすよう訴えていました。そのため、茶室では階級を脱ぎ捨てて心と心で会話する「身分平等」を説いており、多くの人が茶道に触れられるようにと、今までたくさんあった作法を簡略化しました。マダマダ作法ガアリスギテ覚エラレナインデスケド・・・

〈秀吉が千利休に切腹を命じた理由〉
この時代お茶室は武士たちの密会や作戦会議の場としても使われていました。そのため、秀吉は人望もあり武士たちが尊敬する千利休がいつ自分に歯向かうかわからないと冷や冷やしていたそうです。極めつけは利休像でした。大徳寺とつながりが深かった利休は、古くなった大徳寺の山門を改修する資金援助を行い、これに恩義を感じた大徳寺の住職・古渓宗陳は、感謝の意を表すために利休の木造を作り、山門の上に安置しました。
秀吉は、山門の上に利休の像があるということは、貴人たちが山門をくぐった際、利休が貴人の頭を踏みつけているのと同じであり、非常に無礼な行為だと言いがかりをつけ、そのまま切腹を命じました。めちゃくちゃすぎるけどそれだけ千利休が立派な方だったんだろうな。私も将来自分を支えてくれた人にそんな思いを抱かないように、日々自分磨きをして自信をつけようと誓いました・・・💦

茶道で茶杓を大事にする理由

ずっとお稽古のときにお茶で1番大事な道具は、茶杓だよと教わってきました。理由はわからなかったので自分でお茶を入れる道具だからなのかなと思っていましたが、やっと今日その理由が解けて嬉しかったので書かせてください!♡ 

千利休には"七哲"という7人の弟子がいました。秀吉から切腹を命じられ、千利休が故郷の堺に帰る際、弟子たちの見送りは禁じられ、もし見送れば家族もろとも死刑になるとおふれが出ていました。それでも、その危険を犯して2人の弟子が見送りに行きました。そのことがとても嬉しかった千利休はその2人の弟子に茶杓に「なみだ」と「ゆがみ」と名前をつけて送ったのちに切腹しました。弟子たちは利休からの茶杓をお遺灰替わりに大切にして、毎日手を合わせていたそう。そこから、茶道で茶杓を大事にする習慣が始まったそうです!

ずっと謎だった茶杓を大事にする理由がわかってすごく腑に落ちた瞬間でした…🌱

【江戸時代】

きれい寂の時代

千利休が切腹を命じられたのち、千利休が大成した侘び寂びの茶道流派は下火になります。千利休の息子も茶道の道を選びましたが、とても肩身の狭い思いをしながら生涯を送ったそう。表では、千利休を見送った2人の弟子のうちの1人古田織部が家康に使えましたが、千利休の問いた「身分平等」とは正反対の階級を重んじた茶道をしました。時代の流れに逆らえなかったんでしょうね…。
茶道=千利休くらいのイメージがある千利休がたった10年で侘びの茶道を確立したことも、この流派に下火の時代があったことも驚きの連続でした😳

小堀遠州、金森宗和、片桐石州などの大名茶人が"きれいさび"と言われる豪華な唐物に少し侘びが入った茶道が流行りました。

茶道教室の元が確立

その後、千利休の孫千宗旦(せんそうたん)が、今の茶道教室のもととなる家元制度という制度を確立し、京都・大阪以外の地方へも伝播が可能になりました。この制度を作ってお稽古ごととしてのブランドを確立したのが本当にすごい…!今のフランチャイズ化の元みたいな感じだよね。

【明治時代】

財界のTOPたちが皆茶道をしていた時代


数奇者(すきしゃ)と呼ばれる茶人ではないけど、
財閥で茶道道具を集めていたり、お茶に造形の深い人たちが現れ始めました。この時代の経営者や業界のTOPたちはこぞって茶道をしていたそう。今でいうゴルフみたいな感じなのかな…。江戸時代の茶道教室の流れからここまでブランド化できたことがすごい。

【現代】

女性の社交・趣味の場としての茶道

戦後、日本の文化や伝統が否定され、貧しくなった日本では明日食べるご飯に必死で、茶道をする余裕もありませんでした。このままでは茶道が廃れてしまうと感じた表千家の方が女性の花嫁修行(ここまでのお茶の免許証を持っていればこの家柄のお嫁に行けます)として茶道を打ち出したそう。明治時代まで、男性、しかも業界TOPたちの間で人気だった茶道を花嫁修行としてブランド化するのはとても葛藤があったと思います。でもその決断があったからアメリカの支配化でも潰れずに茶道が続いてきたと思うと胸がいっぱいになりました。

テーブル茶道椿の会について

茶道の歴史を教えてもらって、今までは知識がごちゃごちゃになっていた部分がひとつにまとまってすっきりしました。それと同時にずっと侘び寂びを大事にしてきた茶道の教えが、時代によって、時代に沿って変わっていることに驚きが大きかったです。
座学が終わって、学んだことをまとめながら、時代に沿ったテーブル茶道を選んでみてよかったとふっと胸に落ち着きました。表千家や裏千家など昔からの流れを汲む茶道をされている方からすると、邪道に思うかもしれないです。でも時代にに沿って変わっていくのが茶道であればテーブル茶道もそのうちのひとつではないかと。明日も終われなかったテキスト分の1時間を1対1でご教授いただく予定…楽しみです🌷







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