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kill the time 1

時間は存在しないのになぜkill the timeという表現があるのだろうか?

時間は存在しないけど、時間があることにしている。いや時間という概念を使って日々の生活を送りやすくしている。

時間がなかったら困るのは誰だ?
従業員を定時で雇用したい経営者?それともあなた?本当は誰も困らない。

とはいえ、駅に時刻表はなくなり、電車はしかるべきタイミングで来る。10時のフランス語のレッスンに間に合うために朝8時30分に家を出るという概念がなくなる。現代生活は時刻という概念がある前提で成り立っている。

時間のない世界では家を出て駅で電車に乗り、目的地へはいつか着く。新幹線の切符も時間の記述はない。

時間を正確に測るということが行われたのは鉄道の発達と同時期だと聞いたことがある。その当時は街ごとに少しずつ異なる時間帯を使っていて、それらの街を電車で繋ごうと思っても二つの街に共通な時刻がないから時刻表が作れない。時刻表がないと電車の運行はできない。時刻を、つまり拠り所とする基準をどちらかにを合わせる必要がある。時間というより時計の話だけど、現実的にはそういうもんだと思う。

時の概念について遡ってみると、人が火を発見した頃まで遡るのではないだろうか?

人類の歴史の遥か昔のこと、
朝日が昇り、人は活動して日が沈み夜になると人は寝る。火を使い始めたのば何十万年も前、いや何百万年も前だ。時計が発明されるより遥か昔のこと。

我々ら時計という道具を使いこなせているだろうか?時間管理は本質的にできないとよく言われる。制御できるのは行動だけども。その時、時間あるいは時計は管理するべき事柄からやりたいことを助けてくれる道具へと変わる。

朝学校へ出かける前にまだできていない宿題を早起きしてやろうとして遅刻するという経験のある人はいるだろうか?子供の時には前の日に終わらせたのに、社会人になると仕事や家事などやることも沢山あって、宿題の優先順位は下がる。子供の時に宿題を忘れる子供は宿題の優先順位が低いのだろう。他にやりたいことがあるんだからそれでいいじゃないかと思う。

そういえば高校生の時、時間について疑問に思い、逆方向に制御できないパラメータを扱う物理を大学で専攻しようと思った。過去の歴史を学ぶ社会科学の歴史学にも同時に興味を持った。理系の方が将来仕事がありそうだからと歴史学は選ばなかった。もし文系を選択すると得意だった数学も物理も化学もテストがないから不利になる。

将来の進路を大学受験が楽な方を選んだともいえる。間違いではなかったと思う。でももし、フランスの受験制度のような制度だったならば、何を専攻していただろうか?高校卒業時に共通のテスト。物理を専攻して、途中で専攻を変えていたような気もするし、そうでないかもしれない。起こってないことを想像するのは意味ないかもしれないが、それでも想像するのは勝手だ。

前置きが長くなっちゃうのは悪い癖な気もするが、今日のテーマは暇つぶしをやめること。本当はやりたいことがあるのに、やる気にならないからドラマを観て時間を潰す。そういう類いのこと。別にやるのは構わないが、これは時間潰しをしているなとわかってやるのはあまりよくない。時間もなくなるし、エネルギーも無くなるし、いいことない。それでもやるべきことをやらなくてはいけないという思考が強いと、やりたいことをやるべきことに優先させるのが難しい。本当はやりたかったことを後回しにして、いつかやろうと思っていてもそのいつかは来ない。だからすぐに手をつけるのがいいってことになる。すぐ試して違うなと思ったらやめればいいだけのことだから。

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