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「普通」を洗練する【2月4日】

いやあああ。久々になってしまった。
実はいくつか下書きには溜まっているんだけど、どうにもしっくりこないことが多くて、今日はこれが出せるといいなって思います。

今日考えてみたいのは「普通」の正体について。

普通を辞書でひいてみるとこんな感じ。

特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。

google辞書

変わっていないこと。ありふれたもの。当たり前であること。
全部言い換えに過ぎないけど、なんか似たような言葉がつらつらと並んでいる気がします。

自分は普通じゃないんです。とか、周りから普通に生きろって言われるんです。とか、親から普通を求められるんです。とか、ここ数日、いろんな場所で普通という言葉をたくさん聞きました。

僕はこういう場で語られる普通って、【社会から与えられた"名詞"の平均値のこと】なんじゃないかなって思っています。
名詞っていうのは、肩書きみたいなものだと思います。学歴とか偏差値とか、職業とかもそうかもしれない。そしてその大抵は、自分で決めるものじゃなくて、誰かに"与えられる"ものであるような気がしています。

名詞は、自分を説明するためにとっても大切なものです。
でもそれは、社会に、周りの人に説明するために大切なものです。そして、そうである以上、誰かしらに決められる側面≒わかりやすくなくてはいけないという側面から切り離せないと思います。

そういうものの平均値、だいたい真ん中あたりのことを、僕たちは「普通」としている。そこにいれば、社会の中では最も人が多いところにいれるから、そこを疑わないし、安心する。だから「普通になりなよ」っていう言葉が生まれるんだろうなって思います。

でも、普通でいることってめっちゃ難しいんだろうなとも思うんです。

冷静に考えるとそれは、社会から与えられた"名詞"の平均値なわけで、いろんな要素でどこが平均値になるか変わっちゃう。しかも知らない間に。
「あれ?話と違う!ここが普通じゃないの?」なんてことが平気で起きる。

しかも自分ひとりで決められるものじゃなくて、社会に与えられていくものだから、「普通」でいることができるのか永遠に答え合わせができない。

だから、こういう考え方があってもいいんじゃないかって思っています。

自分だけの普通を研ぎ澄ます。

社会から与えられた"名詞"の平均値としての普通じゃなくて、

【いろんな経験を蓄積している"自分"の"平均値"としての普通。】

あなたと全く同じように生きている人はひとりもいません。
そんな自分が考える普通って、社会が決めた普通と全くおんなじものになるんでしょうか。もちろん、そういうことだってあると思う。

でも本当にそれだけでしょうか。
それ以外に自分が変えたくないもの、ありふれていてほしいもの、当たり前であってほしいことってなかったでしょうか。
そういうものに目を向けた、自分だけの普通があってもいいなって思います。

特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。

google辞書

ここに来て辞書の意味が少しだけわかったような気がします。
普通って、「願う」こととセットの関係性なことが多い気がするんです。

【社会の中で】特に変わっていない"人"であること。ごくありふれた"人"であること。それがあたりまえであること。

僕たちが普通という言葉にとらわれてしまう時、普通でありたいという願いがあって、それが叶わないから苦しく感じてしまうような気がします。
でもそれは当たり前で、社会の中での普通が、叶うことはないかもしれないという気がします。だって、願いを受け取る人がいないんだから。叶える人もいません。

だから、せっかく普通でありたいと願うなら

【自分の中で】特に変わっていない"人"であること。ごくありふれた"人"であること。それがあたりまえであること。

自分に対して願ってあげたほうがよっぽどいいなって思います。その願いを受け取るのは、自分だし、自分だったら叶えてあげられる"かも"しれないんだから。

社会という混沌としたものに願いを託すんじゃなくて、自分という明確な存在に願いを託したいし、そうやって願う「普通」は、社会から与えられた"名詞"の平均値としての普通じゃなくて、いろんな経験を蓄積している"自分"の"平均値"としての普通、だと嬉しいなって思っています。

あなたにとって普通とはなんですか。
普通でありたいと願いますか。


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