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『脳のお休み』(蟹の親子/百万年書房)・感想

『脳のお休み』(蟹の親子/百万年書房)


清濁併せ吞む、という言葉が好きだ。

『脳のお休み』を読んでいるあいだ、その言葉が頭をよぎった。ただ、この本は清濁を併せ呑んでいるのとは似ているようで違う。なにが清くてなにが濁っているのか、その区別をしない。あるいは、していない。

なにかを目にしたとき、快や不快、善や悪、美しさや醜さをその瞬間に判断している。あるいは、判断してしまっている。そのなかから、快いもの、善とされるもの、美しいものを好んで選ぶ。あるいは、選んでしまっている。

一方で、不快なもの、悪とされるもの、醜いものを嫌い、うち捨て、忌避している。それは、快、善、美を優先して選択する過程で選ばれなかったほうとして切り捨てられる場合もあれば、不快、悪、醜を選んで切り捨てる場合もある。

『脳のお休み』は快不快、善悪、美醜を選ばない。選び方を知らないのではない。清濁併せ吞むというのは、あくまで清と濁をひとつの口で咀嚼して呑むけれども腹の中では清と濁が別々の胃のなかに格納されている。区別がされている。『脳のお休み』はそれとは違う。

悉皆的な記録の日記のようでもあるが、そうではない。本書へ載せるにあたって選ばれた出来事と選ばれなかった出来事はきっとある。けれども、その出来事で起きたことや感じたこと、それを清濁を選ばないで描く。いや、選ばないという言葉さえも意思的で間違っている。本書に描かれていることに清も濁もない。

判断しないのとも違う。カメラのレンズが目の前に映る景色をデータとして取り込んでいくような、機械的なものでもない。しかしそのさまは似ている。脳をストレージとして溜まり続ける記憶は、いったんは感覚器官を通して脳へ入力された素のデータそのものだ。

それが本書の文章になるとき、その記憶が清や濁といった別々の胃袋から取り出されたものではない。同じ胃のなかから、ひとかたまりの記憶をにゅっと取り出して「これ」と差し出す。そういうふうに僕には読めた。それが僕にとってはとても心地よかった。

ただ、『脳のお休み』の11の章は少し違って読めた。蟹の親子さんは日記集『浜へ行く』で夫のTさんへ「この小説の中に私の代弁者がいます。長くて読みきれないかもしれないけれど、もしよければ」とメモ書きを書いて『夏物語』(川上未映子)を渡していた。僕はそれをずっと覚えている。

それはたぶん『夏物語』の夏子と善百合子の会話の一部始終を示しているか、あるいは物語のなかの善百合子の存在そのもののことで、11の章ではそれに関わることが述べられるのだと、読み始めてすぐ思った。

善百合子のことをある一言で説明してしまえば、まるで世界をぱっと明るくしたみたいに、途端に理解した気持ちになれるだろう。分かりやすいその一言は、清や濁を切り分ける胃に似ている。どうしてもそれを清のほうの胃に入れたいと思っているのかもしれない。

でも善百合子は清でも濁でもない。そもそも、ひとりの人間の考えを清らかだとか濁っているとか、判断することそのものが(それがたとえ架空の存在だとしても)間違っているのかもしれない。

清にしようか濁にしようか、誰かがしきりに悩んでいるその間も確実に存在している。そのひとかたまりを、切り分けて理解しようとしている。しかしそういうことは叶わない。叶いはしないのだ。

その人ひとりのことをひとかたまりに理解しようとしない限り、叶いはしないのだ。そしてその理解しようとする過程は、絶え間のない問いを続けるということだ。

11の章は、いままで『脳のお休み』に描かれてきたことのすべてを通り抜けたあとにだけ現れる、長い旅の先に見えた景色のようなものなのかもしれない。その最後の景色だけを見ただけでは、旅のすべてを理解したことにはならない。しかし『脳のお休み』をひととおり読んでも、なにかを理解した気にもなってはいけない、と思う。

分からない。分からないと思う。僕は蟹の親子さんのことが全然分かっていない。分かっていない、なんて、はじめからそうだったのだから、分からないことにたじろいだりはしない。分からない他者にたじろぐこと、それが人間にできる他者への冒涜のひとつだ。僕はこの本を読んで「他者への冒涜のしかた」をひとつ知ったのかもしれない。

#脳のお休み #蟹の親子 #百万年書房

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