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足で聴く

ある日、ふと気付いた。私は足の写真を撮るのが好きだ。人の足ではなく、自分の足。私の中でのセルフィは顔ではなく足なのだ。その理由の一つは少し恥ずかしがり屋の性格で自分の顔を撮りたくないから(そもそも写真を撮られる時にどのようなポーズや表情をしたら良いか分からない人間)。もう一つの理由はセルフィだと自分の顔を撮れないから。不器用な人間で、いつも顔が半分しか写っていなかったり、斜めになったり、指が入っていたり。という訳で、足の方が撮りやすい。表情やポーズを考えなくていいし、コントロールも効くし。

ただ、セルフィを撮るのが下手だから足の写真を撮り始めたかと聞かれたら、それは無意識にだと思う。どちらかと言えば足元の景色を写したくて撮り始めた。そこに足を一緒に写しておけば、自分もそこにいたという証拠になる。自慢と言われたら自慢かもしれない。「私はこんな素敵な場所に居たよ!」でも、「私はここに居たよ」という周りへの宣言というよりは、「私は今ここに居るよ」という自分への宣言だと思う。足元を見ることは、自分がどこにいて何をしているかを再確認するために、自分へ気付きを与えている。

この気付きを「足で聴く」という風に表現をしたい。耳で聴く時は耳を澄ませて、集中して、その瞬間に耳に入ってくる音に心を向けると同様に、足で聴く時は足の下に何があるかを感じ取って、集中して、その瞬間に立っている場所に心を向ける。裸足でも靴を履いっていてもこれはできる。地面が柔らかいか、硬いか。何でできているか。足は冷たいか温かいか。濡れているか乾いているか。安定しているか揺らいでいるか。自分の足元を見て、足が触れている場所の感覚を味わって、大地とのつながりをイメージする。このように私は足で聴いている。森の中で。川や湖の中で。野原や畑の中で。

農業をやり始めるまでは「土」は自分にとってただの土だった。自分が踏んで来た場所を区別する一つの項目だった。コンクリート、道路、芝生、砂、石、土、等。農業をやり出してから初めて「土」を意識するようになった。土の硬さ。土の色。土の感触。土の匂い。同じ「土」の中でこれほどの差があるとは知らなかった。土は声を出さないけど、土の状態はどのような環境がそこにあるかを伝えてくれている。自分の家の周りでも畑の土、森の土、庭の土は全部違う。

土がそうであるように、それぞれの地面、それぞれの場所はストーリーを語ってくれている。そこを踏んでいる私たちの足も自分のストーリーを持っている。踏み入れた場所、歩んで来た道、これが私たちを作り上げている。動かない足だって、なぜ動けないかにストーリーがある。自分の足元を見て、「今わたしはここに居る」と実感する時に「今わたしは生きている」と感じる。聖書には人は土から来て土へ戻るという風に書いてあるが、土に足をつけることは自分のルーツに戻るということかもしれない。そのようにして自分の存在を確認できる。大地とのつながりを忘れず、これからも足で聴くことを心掛けたい。ということで、顔が写っているセルフィを期待しないでおくれ。

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