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忙しくないわたし

自分のこと。

2年前に転勤してから[忙しい人]に対する苦手意識が生まれた。

職場は忙しい人がたくさんいて、
私もそれなりに忙しくしていたが
皆自分が一番忙しいといった。

当然気遣いや思いやりは後回しで
モノゴトのは自分が一番に優先されると思っている人しかいなかった。

忙しい自分の方が、
忙しくない人よりも価値があると
大声で主張するひとがたくさんいた。

そこで、
なんとなく、
忙しい人が苦手になった。

それはプライベートでも同じで、
すごく前から相手の予定をおさえて、
時間をつくってもらうことに
罪悪感みたいなのを感じるようになった。

だって
わたしは
忙しくないから。

それは、
忙しいなか時間をつくって
あなたと会うのだから
それだけの価値を提供してよね?
というようなプレッシャーに近かった。

それでいて、
相手からは約束に急に他の人を呼ばれたり、一日の予定だったのを半日にされたり。予期せず振り回され傷つくいる自分がいた。

わたしのなかでの相手との時間と、相手のそれに大きな違いがあった。

私にとっては言語化できていない気持ちを共有する時間や、お互いがお互いの存在で癒し合う時間のつもりが、

でも相手の感じているわたしとの時間の価値はもっと小さくて、
時にはコンビニへのお使いくらいにしか思われていないんだと感じた。
そしてそんな些細な事に勝手に傷ついた。

人との距離を置き、
たくさんの人ではなく、
少しのひとたちと付き合うようになった。

昔はたくさんの人たちと
わいわいするのが楽しかった。
きらきらした時間。
集団に自分を合わせて
少し無理をしたり、背伸びをししたり
そんなことも楽しめた。
そこでできるようになったこと、知ったこともたくさんあった。あの時間は私を育ててくれた。

でも、だんだんと、
たくさんの人といるよりも
ひとりでいる時間や、
ふたり、さんにんで過ごす時間の方が
心地よく感じるようになった。

これが大人になることなのかと
したり顔で鼻をならしてみたりした。


たまに、昔の友達たちと
わいわいとしたいと思うときがある。
でもそれは、たまにだから心地いい。

静かに相手と共鳴する時間みたいなもの
相手と向き合う時間みたいなのが
最近の私は気に入っている。

相手を通して自分をみている感覚が
気に入っている。

よく、身近な人は自分を映す鏡だと言うがそれって多分ほんとうだ。

誰かにウケる自分をつくらずとも
誰かに価値がある自分ではなくても

自分で価値があると思えるじぶんにこそ
本当の価値がある。

この投稿の趣旨は、
忙しい人を否定するものではなく

忙しくないひとを見下したり
忙しくない人よりも
忙しいじぶんに価値があると思っているひとにはなりたくない。なれない、というお話。

あとは、求められる自分よりも、
自分の求める自分の方が
私は素敵だと思うなっていう、
ただの呟きです。