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0を彩る悲しみたち

寄る辺のない悲しみに沈む夜がある。

そんな夜に響く、こんな歌詞がある。

僕たちは薄い布だ
折り目のないただ布だ
影は染まらず通りすぎて行き
悲しみも濡れるだけですぐ乾くんだ
 
 サカナクション「years」から抜粋

    

悲しみを感じるとき、いつもこの歌詞を思い出す。

はじめから生まれてなかったら、はじめから0でその先も0なら、いささか楽だろう。
あなたも、ぼくも。

(0に楽もクソもないか。)

つまり、「1-1=0」と、「はじめから0」はちがうのだ。


これは感覚的な比喩だけれど、ネガティブ傾向な思考によって今100ある自分の精神がが-1、-1、となっていって、最後に0になるくらいまで脱力することがある。

明確な理由はないか、理由がありすぎてひとつひとつの輪郭がぼやけているか…時と場合によって異なる。

塵も積もればで、それらは大きなもやになり体を包む。体が、重い。

こういうときの無力感といったら、言葉もない。
いつもは軽々何度も持ち上げるグラスすら重いのだ。


ときにそれは悲劇的な出来事によって引き起こされる。

ときにそれは日常生活のちょっとしたきっかけによって引き起こされる。

この-100を、この0をどうしようか。

ね。どうしよう。

どうしよう、と考える。
でもそれを想像はできない気がする。

僕らは想像できるものを、自分の枠に収まるものを悲しみだと断定して凝視したりはしない。

その想像の枠からこぼれ落ちた何かを積極的に「悲しみ」と言うのだ。

目のふちからこぼれ落ちた悲しみのことを涙という。

僕の今現在が仮に100だとして、これから先100より大きな1000や10000になるだろうか。


その時僕はそのマイナスの果てにある無力な0に耐えられるのか。

そんなことを一日のはじまりに、起きた瞬間に考えたのは今日の朝だった。

眠ってるうちにすべてがなくなればよかったのに、と思ってしまう。
 
 
 
 
 



寺山修司の「しみのあるラプソデー」という詩に、こんなフレーズがある。


「かなしみというしみは どんなしみ?」
 

(※原文には「というしみ」の「しみ」、および「どんなしみ?」の「しみ」に傍点が振ってあります。)

どんなしみなのだろう。

やはり透明な水が染み込んでできたしみだろうか。だとすればそれは少し塩気をふくんでいる。

折り目のない薄い布に染み込んだその水は、どんなに染み込んでもいつかは乾くだろう。

何もなかったかのように。

何もなかったかのように?

(果たして本当にそうか?)

いや、そんなことはない。

だって水気がなくなっても、塩気が消えることはない。

 
 



僕たちは薄い布だ

少しばかり塩気のある 薄い布だ

 
 
 
 



塩気があれば十分だ。

塩気があればつまみになる。

つまみがあれば、今日も酒はうまいはずだ。

積み重ねた塩の分だけ、僕らは遊びながら酒を飲み、楽しむことができるはずだ。

僕はそう信じています。

 



乾杯。

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。