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そこでは誰もが凡庸ではなかった。少なくとも誰もが、普通ではなかった。~モダン仙禽・亀の尾を飲みながら~(中編)

どうもこんばんは、りょーさけです。

ついに我が家にも厚い掛け布団が登場しました。押入れの中から。
とってもあたたかいです。これにニトリの「ずり落ちがしにくい布団カバー」をかけた布団を二段重ねにすれば…夢のあたたか寝床の完成であります!

今日仕事から帰ってきたら毛布も出ていた!ありがたきは家族の存在ですね。明日も仕事頑張れそうだなあ。

…ということで、大学時代の批評の講義とモダン仙禽・亀の尾の話でありました。
前編はこちらです。

何よりもまず自分の言葉で文章を書いてプレゼンして下さい、と言われた学生たち。ちょっと緊張しつつ最初の文学作品を読んで、先生にレポートを提出し次回の講義へ。そこで講義に参加しているみんなにプレゼンをするのですが…それまで概論で暗記ばかりしていた堅い頭ではなかなか自分の言葉など出てきません。


学生の立場の僕でさえそんなふうに思ったのだから先生はもっとそういうふうに思ったことと推察します。

(とかいうとお前はできが良かったのかよと突っ込まれそうですが、僕も例に漏れず当たり障りの無いことを書いていたような気がします。)

不慣れながら、みんな先生が持ってきた作品を読む、観る、書く。そしてそれをしゃべる。更に厄介だったのが他の学生のプレゼンに対してコメントを求められること。Aさんが発表すると先生が寸評を述べた次に、「じゃあそれについてBさんどう思います?」と問われます(毎回全員問われるのです)。これがまたキツイ!

第一に、当たり障りの無いことを言っている人に対しては当たり障りの無いことを言うしかない。第二に、当たり障りのないことを言っている人に対して当たり障りの無いこと以外のことをいうとしたら、とどのつまり「当たり前過ぎて面白くありません」くらいしかない笑

このように開始したばかりの頃は自分のレポートをプレゼンするのも、他の人のプレゼンへて良いツッコミを入れるのも困難なのです。

僕は1年と7ヶ月位?合計2年弱その講義に出席していたのですが、どちらの年も開始早々はそんな雰囲気がありました。

それにしても、今思うとこれは長い期間をかけた壮大な皮肉のようにも受け取れますね。勉強して、文字を覚えて様々な教科、物事を学んでいって大学にまで行って成人して将来の諸々もちらつく時期にまさか「対象を自分の言葉で自由に論じる」なんてことで躓くとは!


僕らは自分でなくなるために学ぶのでしょうか。
学校って、行く意味あるんでしょうか。
こんな世の中、おかしくないですか…?

…とかって書いちゃうのがまさにだめな例です。
はい、誤解のなきように。上記は私の意見ではありません。この講義のコンセプトからするとあまり良くないコメントの一例として挙げました。

これは一見当たり障りがありそうですが、実は当たり障りの無いことです。というのもこれは世間に波風立てて何かを論じているような雰囲気はありますが、小さなオリジナリティの芽すら感じないからです。誰かが言っていたのを丸写ししたような論じ方です。「ふーん、ネットで誰かがそう言ってたの?」みたいなリアクションをされてしまいそうです。

まるでその人が考えたように見えません。これではある個人がわざわざプレゼンする必要が感じられない。

こういうものを書いてしまうと先生は苦笑いだったように思います笑


と、ちょっと休憩。先生の苦笑いを思い浮かべて今夜も仙禽亀の尾をいただきます。

味が抜群に開いてきやがった…!「味が開く」は「特定の味が濃く感じられる」「初めより多くの味を感じる」くらいの意味です。
甘旨は濃厚になり、香りにはパイナップルに加えてバナナのニュアンスも加わっている…?なんでだ…?気のせい?酸味の腰が座った感じはそのままなのですが、なにか違うテイストを感じる。

(※日本酒において一般的にパイナップルとバナナの香りは同時には現れません。一般的に、ですが。)

バナナでは…ないか?
でも初日のパイナップル感だけではない何かがここにはある気がするな…。

二日でこの变化ぶり。仙禽は一体どうやってこの味を造り上げたのだろう。

で、はいもとの話です。

そんなこんなで幾多の困難を乗り越え、学生たちは徐々に先生が求めていることを理解し表現していきました。

今考えると先生が求めていたのは趣味の洗練であったのだろうと思います。言い換えれば自分の感性を見極めて、それを基準に何事かを論ずる方法の習得。誰かのものさしではなく自分のものさしで世界と世界の何事かを測る方法を自分たちに会得してほしかったのではないかなあ…。

わかりやすく言えば、それは「自分の中にプチ芸術家を持っておけ!」ということだと思います。拙くても、自分の感性で判断し動く。一般的な合理不合理とは違う自分だけの基準を持つ。

大学教育に関して様々なことが嘆かれる昨今ですが、僕はこういう講義もあるからまだまだ大学は必要だと思うな。

「趣味の洗練?それなにかの役に立つの?」と言われる方も多いでしょう。そういう人はこういうものを受けなくてよろしい。僕の話も聞かなくてよろしい。
「趣味を洗練させる訓練をするのか!おせっかいだけど確かにすごいことだ」と理解してくれる人にだけ伝わればいいです。

(例えば上記のような能力は仕事なんかでは役に立たないと思われがちですが、そんなことはないと思うのです。例えばあるプロジェクトがあったとします。で、途中でそれを続けるのかやめるのかを判断しなければならなくなったとする。そんなときコスト面や倫理面、その他あらゆる判断基準となるような要素を列挙し尽くしてもそれを実行するのかしないのかを判断できない場面というのがあると思います。今実際に起ってなくても想定しうる。そんな時に何を実行するのかは、外的な情報ではなくもはや自身の内的なもの…つまり芸術的な感性にまかされていると言っていいと思います。)

軌道に乗ってからは毎回が楽しかった。パンクロック好きの先輩は落ち着いているようで時折ポロッとドキッとするようなことを言い出すことがあった。クトゥルフ神話が好きな同級生は毎回決して他の人と被らない異世界感のある感性を発揮していた。恋愛の駆け引き好きだと評判だったコは、一風変わった恋愛短編をもとに一風、いや二風くらい(?)変わった論評をしていた。楽しかった。このあたりで誰もが皆輝いていた。

さて、僕は?

みんな輝いている中で僕は?

それも含めて次回批評と仙禽亀の尾は最終回です笑

引っ張りすぎたかな?まあいいや。

このお酒…初日も刻一刻と変化していって、2日経ってまた違う姿に。最初の個性はどこから来てどこへ行ったのか。今はちょっと違う酒だ。仙禽亀の尾。酒の個性の極め方にも、いろいろあるよね。

乾杯であります。

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。