noteがきっかけで読んだ作品⑨    「感情をめぐるnote記事7選」

 先日こんな記事を読んだ。

 私も一応、参加させていただいているコンテストの作品にサポートやオススメ記事を書いてみませんか、とのこと。審査に影響がないと明言していたのを見た記憶があるので、

 ちょっとやってみようかな……とは思いつつも、

 正直なところ、最近あまりnoteを読んでいないので、すこしためらいもありました。まぁとはいえせっかく面白い作品と出会ったのなら紹介したいと思うのも人情。真夜中に書いたのでヘッダー画像もそれに合わせました。本当に何言ってるんでしょうね。

 さっさとレビューに入ろうかな、と思ったのですが、私のことを知らないひとも多いでしょうから、先に自己紹介もしておきましょう。

 ただのホラー好きです。ひっそり小説書いたり、本や映画の感想を書いたりしてるだけの人間でここで紹介されたから嬉しいとは限らないでしょう(後、ただの参加者なので賞向きの作品かどうかなんてことも知りません)。

 noteの記事に感想を書く時によく付ける注意書きがあるので、それを添えておきます。

知り合った(読んでもらったことが)きっかけで読むことはあっても、私はお礼のためにレビューを書くということはしないようにしてます。何故なら紹介したい素晴らしい作品が「お礼という要素がなければ、評価に値しない作品なのか」と欠片でも思われたくないからです。だから、ここで紹介する作品は自信を持って、オススメと言えるものです。ぜひ、未読の方は、ご一読をお願いします!
※毎回書いていますが、シェア・転載禁止や批評禁止の場合は投稿後でもすぐに対応しますのでお伝えいただければ幸いです。そして勝手にやっていることなので、プレッシャーを感じて無理してスキや感謝の言葉を書いたり、無理して私の記事を読んだりとかはしないでくださいね(この言葉は裏読みせず、言葉通り受け取って欲しいです(*- -)(*_ _)ペコリ)。

 コンテストに合わせて、ということなのか、渾身の力作と思えるような作品が多く、今から紹介する記事と同じくらい楽しんだ作品がいくつもあったことを添えておきます。



「今夜も白い壁じゃなくて、顔を見て眠りにつきたかった」左頬にほくろさん


狭い、ということは近い、ということで。
気配につつまれた濃密な8.5畳は、どこにいてもふたりがいて、どこにもいけないほどふたりしかいなかった。

 肉体的な距離はどこまでも近く、精神的な距離はどこまでも遠い。8.5畳の決して広いとは言えないワンルームをお城に例えて、二人暮らしの中での〈わたし〉の葛藤が綴られていきます。季節の変遷とともにたった一人で暮らしていたスペースを共有する相手と出会い、そこに不在の哀しみ、存在の嬉しさ、触れ合うことへの願い、存在の息苦しさ……と言った感情が静かに描かれていきます、

いつから私が眠りにつく前の景色は、白い壁になってしまったのだろう。
目の前に、鼻先に触れそうな距離に。睫毛も、匂いも、寝息もない。硬くてつめたい壁だけがそこにある。

 エッセイと小説のどちらとも取れる(どちらのタグも付いていたので、こっちの判断に委ねられている部分もあるのかもしれません)内容になっていますが、どちらにせよ想像の余地を残した一篇で、〈わたし〉の部屋で一緒に生活を共にしている相手の情報は一切分からず、名前どころか、〈あなた〉や〈きみ〉と呼び掛ける言葉さえもありません。男性なのか女性なのかさえ判然としないシルエットのような相手の不明瞭さが、確かにそこにいるはずなのにいない、という感覚を強くかき立てます。存在の哀しみ、あるいは精神的な喪失を感じさせる結末の切ない余韻に浸っていたいような気分になりました。




「人の真剣さを笑うな」カラエ智春さん


あのときこみ上げる『笑い』って一体なんなんだろう。決してバカにしてるわけじゃない、むしろ敬意すら抱いているのに、思わず笑ってしまう。

 作者のカラエ智春さんが出会った2人の先生の話に、読みながらくすくす、としてしまった一篇。流暢な英語でキレるクールな顔立ちをした女性のF先生と〈リアル・マッド・サイエンティスト〉と作者が敬愛しているA先生との暗闘(?)を描いた作品で、何故A先生が〈リアル・マッド・サイエンティスト〉なのかと言うと、

 人間に興味がない、と公言していて動物愛に溢れているのに、

家の近くで絶命したタヌキはなめす、校舎の窓に激突して死んでしまったフクロウは剥製にする。それがA先生という人なのである。

 というのが理由だそうで死後も大切に扱っているのだから行動理由自体は理解できるものの……とはいえ〈リアル・マッド・サイエンティスト〉と心の中で呼びたくなるのも理解できる人柄なのかもしれない。人間に興味をない、という先生の言葉を聞いてくれるのも人間だけだから、人間も大事にしろよ先生、と私なんかは思うわけですが、もしかして動物と想いを重ね合わせたりもできたりするのだろうか……?

 実際にどういう暗闘が繰り広げられていたかは各自で読んでもらうことにして、私の最初のくすくすポイントが、

これが巷で言うところの「ウップス」からの「ヘイ!」である。調子はどうだ?HeyHey。

 という一文で、

火を吹く舌端、ビブラートの旋律、開戦の狼煙。あぁ、わたくしに向かってひたひたと迫る死の足音が聞こえてくる。

 こういう文章が〈笑い〉という感情に奉仕されていくのが実に気持ち良くて、シチュエーションの面白さももちろんあると思うのですが、それ以上に言葉の連なりで感情を喚起していくところに文章でなければならない楽しさがあります。

 F先生とA先生を掛け合わせてもドラえもんのような後世に残したい漫画が出来るばかりではないのでしょうが、2人の先生のやり取りを見ていたかつての生徒が多くのひとを楽しませているのだから、やっぱりFとAの付く先生は何かを持っているんでしょう。




「漢たちの挽歌」逆佐亭 裕らくさん


 くすくす、というか、にやにやしたと言えば、こちらの記事。

他人がそれをどんなに「くだらない」と言い捨てたとしても。
本当に大切なのは、己が信じたそれを貫き通すことなのだ。

 ハードボイルドな雰囲気に力強い言葉が何を語るのか、と思ってみれば、「いかがわしいDVDをレンタルする際の美学」である。失笑したあなたにはもしかして分からない世界なのかもしれないが、私には分かる……いやこの記事に関しては〈私〉という一人称は無粋だ。本来の、そしてのあの日の〈ぼく〉でいこう。必ずしも共感こそが素晴らしいと言う気はないけれど、確かにこの記事には感情を重ねるものがあった(作者の逆佐亭裕らくさんよりぼくはすこし年下だけれど、そこまで年齢が離れていないというのも、もしかしたらあったのかもしれません)。

 あの暖簾は日常と非日常の境目だった。確かにそんな時代がぼくにもあった。過去形にしてしまうことに一抹の寂しさを感じながらも、切ない郷愁に浸ってしまう。あの暖簾の先は、日常を逸脱することのできないぼくが唯一踏み込める非日常だったのかもしれない。

 記事では、

「いかがわしいDVDを借りることに関して弱者」

 のことを、イカ弱と呼んでいるが、今きみが立っている場所は足元の覚束ない幻想の中のリアルだ。不安で当然だ。不安と闘いながらきみは成長していく。己でどう考え、己がどう振る舞うか。何度も失敗するだろう。だがそれも糧となる、と過去のぼくに伝えるチャンスがあれば言いたい。

暖簾をくぐった先で繰り広げられる、一言も言葉を交わさないにも関わらず、なんとなく空気を読みまくる男たちの、……いや。
漢たちの連携による気遣い。
尊重し合う心。
ほんの少しの共感。
「俺もその棚見たいんだよ、早くどけよ…、ほたるの光が流れ始めてんじゃねーか」という焦燥感。

 正直このレビューを書きながら、「何を、どういうテンションで書いてんだよ」と自分自身に対して思わないでもないし、きっと作者側も書いた作品について似た感覚を抱いているだろう、と勝手に想像してしまったが、あの暖簾の先にかすかな畏れを感じていた日々を振り返ると、やはり切なく語りたくなってしまうものなのかもしれない。




「残像とポストカード」あおやぎわかこさん


「その人」はただ1人の人間だが、私の中のその人は、その人のみではとらえられず、存在しない。私が経験したさまざまな出会いの中にその人はいて、幾人もの残像を通して私はその人を見る。

 明快さを持たない、容易に答えを出さない魅力というものは間違いなくある、と思っていて、そんな魅力が横溢しているのがこの記事で、〈誰か〉について語る時、多くの残像を通してその〈誰か〉を見ている、という発端から、共有していない「景色」(自分の目で見た出会いや経験)を伝えることの難しさをかつて自身が受け取ったポストカードのエピソードに重ねていく本記事の中で作者自身も、この記事の内容(つまりそれは共有していない「景色」でもある)伝える難しさを自覚しながら、だけどそれを楽しんでいるような、すごく曖昧な表現に思うかもしれませんが、ただそれを許容してくれる凪いだ水面の緩やかさのような不思議な読み心地の良さがあります。

「私と彼」と書くのは、自分本位だと思い直す。手放していたのは、私だった。手渡された景色をよく見ようともせず、そのくせ景色に勝手な名前をつけて回るのだ。

 作者のあおやぎさんは自分さえもすこし脇にぽんと置かれた物を眺める客観性を持っているように私には感じられて、その冷静な言葉に耳を傾けながら、その文字から聴こえる声にもっと浸っていたくなりました。そして冷静だけれど、冷たくはない。余韻はとても爽やかです。




「かなしみの音色」宿木雪樹さん


けれど、わたしの目からは涙があふれていた。
不思議な気分だった。どんどんと脳内の『夢』が形を崩して、熱くたぎっていく。
体中がしびれ、胸にはいくつもの穴が空き、そこから血や空気が抜けていくようだ。

 たったひとつの死の喪失に対する心情の変遷を長い年月の流れの中で描いた短編小説です。十七歳の時に幼馴染の死と直面することになったミワコの感情の揺れの中で、受け入れられない死を想いながらも、時間の流れとともに、すこしずつ変化し、そこに罪悪感(あるいはわだかまり、と言ってもいいのかもしれない)を残しつつ、

 かつてミワコがヒマリの言葉に対して、

クルミが怒っているわけないじゃない。だって、死んじゃったんだもん。怒っていないし、悲しんでもいないし、わたしたちのこと覚えてもいないし、存在もしていないんだよ。

 と肉体も感情も失ったクルミの死にこんな感情を抱いていた。それでもどれだけ時を経ようと、〈クルミ〉、という存在は、そこに、確かにある。さきほどの左頬にほくろさんの作品とは真逆で、距離はどこまでも遠く、だけど精神的な繋がりはどこまでも近いところで繋がっている、ということを強く感じさせる小説です。

台所の小さな照明だけをつけて、お湯を沸かす。コンロの火のつく音、ティーバッグを閉まった引き出しを開ける音、秋風が窓に雨を運ぶ音。それらのあいだに、ひっく、ひっく、と、娘のこもった泣き声が聞こえる。

 歳月を経て(読む人の興を削がないために何年の月日が経ったかはここでは語りません)、あの日と同じドビュッシー『夢』の音色が重なった時、その音は形を変えてミワコのもとに届けられる。喪失が喚起する逃れられない感情とひたむきに向かい合った、琴線に触れるような作品です。




「漁村の女」上田聡子(ほしちか)さん


「世界はね、どんな風にでも解釈できて、その仕方を決めるのは自分自身なんだ」

 東京に住みフリーでイラストを描く仕事している語り手の〈私〉が、結婚後初めて自身の生まれた家に里帰りする。港の漁協で魚を加工するパートをしていた母はまっとうに働くことを第一に考えていて、実家を離れて東京に移り住んで絵を描き続ける〈私〉との間にはもやもやとしたものが残っていた。

 そんな導入で始まる本作は、世界はひとつではない、ということを教えてくれるような作品です。

絵を描いたらいけないっていうルールは、広い世界の中の、小さな日本という国の、さらに小さな田舎町の、君の家というちっぽけな場所だけのルールだよ。いろんな人に会えば、いろんな人がみなそれぞれの自分だけのルールを持ってることがよくわかる。

 当たり前のことですが、十人いれば十通りの、見方、生き方があります。つまり人の数だけ世界の捉え方があるわけです。本作ではそんな捉え方の噛み合わなさにもどかしさを抱えていた〈私〉が自分なりの世界を見据えていくことで、許容できなかったものを受け入れていく。不寛容な心では知ることのできない、寛容の尊さを感じさせてくれる小説です。

 身近だからこそ、時にいがみ合い、どの間柄よりも難しくなる母娘(家族)という関係を軸に、考え方の多様さによって理解が深まっていく。他者の言葉を知ることでどこまでも自身の内にある世界が広がっていくような、そんな言葉と出会い、魅力にとり憑かれた頃のことを思い出し、それがまだ続いているのだと感じさせてくれるような作品でした。




「下町リバーサイド心中未遂」やすたにありささん


 昏い過去との対峙の先に射すひとすじの明るいそれを、光、と呼んでいいのかどうか私には分からない。ただ私には、光にしか、希望にしか、感じられないのだ。

 正直私はこの作品にどんな言葉を添えればいいのか、いまだに分かっていない。素晴らしい作品と出会った時の「言葉にするのは野暮だから読んでください」と添えるだけでいいのかもしれない。いやそもそもそれさえも要らないのかもしれない、という気持ちさえ頭をよぎりました(実際に素晴らしいからこそ言葉にしない作品もあります)。それでも私はこの作品に言及したい、と思いました。何でかと考えた時、やはりそれは読んで欲しいからなのです。

名前も生まれも学歴もこれまでの生き様も、世の中から遅れをとってしまった理由も互いに知らない私たちはあの夏の日、ひっそりとでも確かな手応えで独特のコミュニケーションを図っていたのだ。
ときに優しく、ときに偽りの。

 絶望の淵で死を畏れた女性の生の軌跡、という言い方が正しいのかは分かりませんが、本作は限りなく死と生が表裏一体である事実から眼を逸らさず、見たくないものに蓋をして口当たりの良い言葉でごまかすようなことはしない。だからこそひとりの人間が生を望む姿は真に迫り、どこか遠くの見知らぬ人生を読んでいるのではなく、他人事にしてはいけない身近な人生を読み、対峙しているのだ、と心の中で居住まいを正すような感覚を抱くのです。

 世の中で類型的に使われる〈幸せ〉という言葉が空虚にしか思えなくなった時、そんな心をぎりぎり繋ぎ止めてくれるのは、この作品で綴られるような言葉だけだと思っている。それは時に生きるよすがとさえなる。



 ただのホラー好きに過ぎない私の読み方が的を得ているかどうかは分かりません。ただどれも面白く、おすすめは自信を持ってできます。まだ読んでいないひとは、ぜひ~。

この記事が参加している募集

note感想文