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4/29「考えるということについて」

「考える」ことを考えてみる。すでに今ある力を点検し、より強くなることを目指す。


考える行為、というと、どんなことを思い浮かべるだろうか。本を読む、執筆、計画立案、視覚化。それらはもちろん、不必要な行為ではないし、最終的には、考えるということは、これらのいずれかの形で表出されることが多いと思う。

だけれど、これらがすなわち、「考えること」であると言えるのだろうか。これらは、自分や、他人に、明晰に自分の思考を認識させようという試みであって、「考えること」そのものではない様な気もする。


では、「考えること」そのものは、どんな風だろうか。それは、この記事のヘッダー画像の様に、何もせず、ただぼんやりとする、まさにその時に、発生する「現象」なのではないだろうか、と思う。

中高の同級生に、頭脳明晰で、天才肌っぽい奴がいた。彼は地元トップの進学校から最難関の国立大学にストレートで進学したが、彼は、よくぼんやりとしていたのが印象的だった。

全く何もしていない、というわけでもないのだが、椅子でゆりかごをしたり、ペンをいじったり、ノートに落書きをしたりと、一般的な「考える行為」とは違ったものに見えた。


俺自身考えることが好きである、という自覚があり、だからこんな文章を執筆しているのだと思う。一番得意なことと言ってもいいのかもしれない。

今やっている活動も、バイトを除けば、勉強に読書に執筆に、「考えること」につながりそうなこと、あるいは、そのもの、の様なものばかりだ。

そして、俺は散歩をよくする。一日あたりの平均歩数は、一般男性の倍ぐらいになると思う。そしてこの、「歩く」という行為が、「考える」ための最良の方法である、ということを、賢そうな人たちが言っているのを何度か耳にしたことがある。

考えよう、考えよう、としても、ダメなのかもしれない。準備をして、本番はあくまで、自然に、「発生する現象」として、考えるということが、起こる環境を整えてあげる。そういう、繊細で、丁寧な、セッティングが、考えるということを高めるのかもしれない。


さて、「準備」と書いたが、では「考えるための準備」とはどの様なものだろうか。

この文章が参考になった。

考えるためには、材料を用意し、それらを適切に「仕分け」することが大事だ。適切に仕分けられた材料は、自動的に、その時の最適なレシピの下で、編集され、思考が出来上がる。そういうイメージだ。

この「仕分け方」ということについても、考える余地があると思う。戦略については、①地理②歴史③世界観④経済⑤政治の五つの分類で、とりあえず、やっていこうと思っているが、考えること、というのは、戦略だけではない。


様々なジャンルの思考について、仕分け方のレシピの様なものが、用意できれば良いと思う。




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