また生まれ変わっても「書く」を選択したい

社会人になってから、文章が仕事になった。文章が仕事になるまでは、ずっと文章を「読む側」だった。酸いも甘いも経験し、その地肉がいまの文章家としての自分を形成している。

文章を仕事にする前に、文章に触れたのは、小学4年生のときの読書感想文が、おそらく1番古い記憶だ。なんの本の感想文を書いたのかは記憶にないが、学内で賞をもらったことはいまだに覚えている。そして、その喜びが文章を、さらに好きになったきっかけになった。

いま思い返せば、小さいときから文章にはたくさん触れてきた。母が読み聞かせしてくれた絵本。続きが気になりすぎて、小学校から家に持ち帰ってまで読んだデルトラクエスト。ダレン・シャンも何度も読んだし、かいけつゾロリには馬鹿みたいに笑わせてもらった。

中学生のときは、乙一と山田悠介にはまった。彼らのミステリアスな世界は、予想をいとも簡単に覆してくる。今度はどうやって予想を覆してくるのかが、いつも楽しみであった。授業中にバレないように、こっそりと小説を読むあのスリルが、ミステリアスな世界をさらに増長させた。

高校生のときに伊坂幸太郎の巧みな文章術に魅せられ、市川拓司の「恋愛寫眞」と出会った。市川拓司の「恋愛寫眞」はなんども読み返している。

大学生のときに吉本ばななのエッセイに安らぎと絶望をもらっていた。大学生のときの1番の安寧は、吉本ばななの「キッチン」。つい最近も読み返した。これは自身の人生のバイブルなのだ。

いつだって文章はじぶんのそばにあったし、文章を書くことで、救われたり、絶望してしまうじぶんとも出会えた。

たくさんの本を読みながら、同時にたくさんの文章を書いていた。文章はその人の本質が表れるとも言われている。当時のじぶんの文章は書き方を学んだわけではないため、自己流でしかなかった。

読みにくいのはもちろんのこと、なにが言いたいのかが、まったくわからない。なぜ読みにくい文章しか書けなかったじぶんが、今こうして文章を仕事にできているのか疑問に思ってしまうほどのレベルだ。その点に関しては昔のじぶんが頑張ったにちがいないため、野放しで称賛をあげたい。

文章を書く原点は、文章を読むことにあった。幼少期の頃からたくさん文章に触れ続けてきたからこそ、誰かの胸に響く文章をじぶんも書けるようになりたいと願った。そして、いまこうして文章を書いたり、編んだりする仕事ができている。

文章に救われて、いまがある。文章がない過去も現在も未来も考えられない。ぼくはまた生まれ変わったとしても、変わらず文章を仕事に選ぶ。

じぶんを育ててくれたすべての文章に感謝を。

そして、文章を書くことができるその事実に感謝を伝えたい。

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