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祈りとか、呪いとか

「人の話を聴く」という仕事をしているからだろうか。わたしの元へ、よく手紙が届く。

それは紙だったり、メールだったりして、その想いが刻印されたことばは願望や後悔や祝祭や哀惜として結晶化されたものだ。精製された情念の塊は、祈りや呪いとなって空気やわたしのこころに溶けてゆく。こちらにも覚悟がないと、その怨念のようなものに引きずり込まれてしまう。

相談が目的の人もいれば、「ただ聴いてほしい」という人もいる。「この人であれば最後まで聴いてくれる」と思ってもらえているのだろう。内容はきわめて個人的で、なるほど誰彼構わず話せるものではない。わたしは、耳を傾けるように受け取り、差出人と秘密を共有する。

もう随分と前の話になるのだが、長文のメールが届いたことがあった。「相談したいことがある。感情の整理がつかず、取り乱している。人には言えないので聴いてほしい」。そのような内容だった。相手は女性で、全くの知らない人である。「アドバイスはできないかもしれませんが、読むだけでもいいなら話を聴きます」と返信した。そこから毎日のようにメールが届いた。

一回につき3000~5000字、長い時は10000万字を超える日もあった。内容は、パートナーとの関係性が良くない方向へ進んでいること、不安に苛まれ深く傷ついていること、傷つくことを含めて最初からこうなると気付いていたこと、相手が自分以外の女性と関係を持っているらしいこと。感情的な日もあれば、淡泊な日もあった。いずれにしても、丁寧なことば遣いだった。彼女の文章には、その時の気分が強く反映されていた。そして、毎回書き疲れたところで「また明日、送ります」と添えてあった。わたしがその手紙を受け取る度に、彼女はひとりでにこころを整理して悩みを解決している様子が伺えた。

十日ほど続いたある日、「次が最後になります」と書かれたメールが届いた。

「毎日読んでくださり、ありがとうございます。ずいぶんと気持ちが楽になりました。はじめからこのような結果になることが、私には解っていたのかもしれません。パートナーも、相手の女性も、被害者意識が強く、思慮が浅い人間です。特に女性の方が、私を悪者に仕立てているようでげんなりします。ただ、手のひらで踊らされているのはどちらかということを示さなければいけません」

そのような、ある種“抽象的な表現”で何かを示唆していた。わたしは、彼女が正常であるのか、狂気の中にいるのか、判断がつかなかった。しかし、その判断をする責任は不要だった。わたしは、ただ届いた手紙を受け取ればいいのだ。

そして、数日が空き、ついに最後のメールが届いた。その手紙は今までで最も短い内容だった。すぐに送れなかったことを詫び、それから数行で終わっていた。そこに書かれていたのは、パートナーをそそのかした女性の名前だった。その人はnoteで文章を書いていて、何度か目にしたことがあった。

「私も彼女の文章の巧さに惹かれたことがありました。ただ、あのような浅ましい振る舞いをすることは許すことはできません。嶋津さんも彼女には注意してください。今までありがとうございました」

そう締められていた。

もう随分と前の話である。そこに書かれていることが真実なのか、嘘なのか、はたまた妄想なのかはわからない。わたしはただ手紙を受け取っただけだ。

そこには強い念が込められていて、何かを奪うような香りを放っていた。手紙の送り主は、いつの間にかどこかへいなくなった。今回、この文章を書くにあたり少しニュアンスを変えて、具体的な内容はぼやかした。わたしは、誰にも漏らすことなく、この秘密をずっと抱えて生きている。



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