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お金を稼ぐのは罪?

こんにちは!
新米クリスチャンのリョウです。

このブログは、全くのノンクリスチャンだったボクが、
クリスチャンとして導かれ、その中で見たもの感じたことなどを
気ままに書き綴っていこうかと思っています。

不定期更新ですので、たまに覗いてみてください。

第十九回目は、「お金」についてです。
献金についてではなく「お金」と「信仰」について、ボクの経験や、思っていることなどをお話しします。

ちなみにボクがナビゲーターをしているバイブルアンサーの最初の質問は、「お金」についてでした。

あきら牧師が、聖書の記述からわかりやすく回答してくれていますので、是非観てみてくださいね。


お金に対するコンプレックス

お金についてどう思うか、どう感じるかは、幼少期の原体験に大きな影響があるように思います。

ボクの家は、普通より貧しい家でした。
両親共働きで、一生懸命働いて、姉とボクを育ててくれたと思います。

子供の頃から、あまりおもちゃは買ってもらえず、漫画も何十巻もある長いストーリーの途中の中途半端な一冊だけしか買ってもらえず、前後のストーリーや人間関係を想像しながら、擦り切れるほど同じ漫画を読んでいました。
ファミコン全盛期にゲームも買ってもらえず、友達の家に遊びに行っては、友達が遊んでいるゲームを見て(下手なので、あまりやらせてはもらえない)、家に帰ってゲームの続きを想像するような子供でした。

おもちゃもないので、ボールペンやシャーペンを人に見立てて物語をつくったり、針金ハンガーでロボットをつくったりして遊んでました。

おかげさまで想像力は鍛えられましたが、ゲームや漫画、ビックリマンやカードダスなどその時に流行っていたもの、そして思春期になると、ファッションなど、そういったことにお金は使えず、とてもみすぼらしいような、恥ずかしいような思いで過ごしていました。

今思うと、父が仕事を失ったりさまざまなことがあったので、いつも家計は火の車だったのだと思います。

とはいえ、ちゃんと食事も食べられて、姉もボクも大学まで入れてもらっているので、親には頭が上がりません。(しかも大学は辞めてしまいましたし…)

そんな風に、お金に対してちょっとした劣等感を抱えて成長しました。

そして大学を辞めて早々に結婚することになったのですが、結婚して一年目は関東で新卒くらいの給料は稼いでいたものの、当時の妻の都合で北海道に引っ越すことになり、仕事が全く決まらず収入は激減しました。

生活はなんとか成り立っていましたが、ボクは収入を全て妻に渡していたので、家計のことはわからず、結婚生活は、ボクの稼ぎが少ないからという理由で、服は結婚生活7年で一度だけ買ってもらったものの、他は昔の服と奥さんの服のお下がり(妻は、ユニセックスの服を多く持っていました)、
髪は裁ちバサミでバサっと切るだけというような節約生活をしていました。

妻の実家は裕福だったので、何か急な出費があると、妻のご両親が援助してくださいました。

今でも妻のご両親には、感謝と申し訳ない気持ちがいっぱいですが、ボクのお金に対する劣等感は、より強くなっていきました。

その後結婚生活がうまくいかなくなり、別居することになるのですが、ボクの収入の8割を養育費として払うことになり、月2万円の家賃の家に引越して、残り1万円でその他の生活費をまかなうといったギリギリの状況で暮らしました。(飲食店で働いていたので、食事は何とかなりました)

その後実家に帰り、人生を再スタートさせるにあたって、「お金を稼ぐ」というのが、大きな目標のひとつとなりました。

いい生活をしたいという思いもありましたが、実際のところ物欲は全くなく、車や服や時計にも興味はなく、旅行が好きというわけでもないので、綺麗な家に住みたいくらいの使い道しかありませんでした。

ですが、とにかくこの劣等感を払拭したいという思いはありました。

そして以前お話しした、進化論的な価値観と相まって、
「成功するぞ!」と馬車馬のように働きました。

色んな本を読んで、色んな講演会や研修を受講して、稼いだお金は全て事業への投資と自己投資に使いました。

恥ずかしい話ですが、電気代が払えなくて電気が止まり、ロウソクで一晩過ごしたこともありますし、真冬にガスが止められて水のシャワーを浴びたこともあります。

ちなみにこれらは、全く悲壮感のない楽しい思い出です。当時付き合っていた恋人と、笑いながらその状況を楽しんでいました。
貧乏エピソードだけで一つの話が書けるくらいあるので、機会があれば話しますね笑

そんなこんなで、何とかそこそこの収入になったタイミングで、疲れ果てて聖書に出会いました。

聖書を読むにつれ、次第に自分の人生について深く考えるようになり、何とか生活出来る収入だけ残して、当時持っていた仕事をほとんど辞めました。

そして田舎へと移住しました。

聖書の間違った解釈

その頃、まだ聖書を不勉強だったのもあり、聖書には「お金のために生きてはならない」と書いてあるし、マタイ19章に出てくる金持ちの青年のように、お金を全部捨てて生きなきゃいけない!

と、思っていました。

「生活出来ているだけで感謝なのだから、それ以上欲しがるのは罪だ」と考えたのです。
お金に対する劣等感があったので、より強くそう思ったのでしょう。

実を言うと30代の頃、成功したいと鼻息荒く働いていた時も、お金を稼ぐことにわずかに罪悪感を感じていました。

そして、聖書を読んだとき、表面的な理解しか出来ておらず、さらにお金に対する罪悪感が増しました。

そんな偏った価値観を持って、移住したのですが、移住はボクひとりでしたのではなく、友人数名と「みんなでしよう!」と言って企画したものでした。

なので、移住当初は友人と2人でルームシェアをすることになりました。
幸い田舎の部屋は安くて広いので、ルームシェア自体は全く苦になりませんでした。

しかし友人は、仕事を辞めて無職の状態で移住してきたので収入が全くない状態でした。
仕方ないので、友人の分の家具代と家賃と生活費を支払うことになりましたが、「困ってる友人を助けることが出来て嬉しい」と、全くストレスはありませんでした。

友人の就職がなかなか決まらなくても、「焦らなくていいよ、せっかく移住してきて人生再スタート切るんだから、納得行く仕事を探そう」と励ましました。

その頃、娘が大学に行くのに一人暮らしをするから仕送りをしてほしいと相談がありました。(養育費の支払いはもう終わっています)

収入を減らし、友人一人分の生活費も賄っていたのでギリギリだったのですが、娘に対して、寂しい想いをさせてしまった償いを少しでも出来ればと思い、仕送りを始めました。

さらに生活はギリギリになりました。

もう一つ付け加えると、実は移住前から別の友人の支払うべきお金を肩がわりしてあげていました。
お金に余裕がある時は気になっていなかったのですが、家計が切迫してくると、その支払いがかなり重くのしかかってきました。

その頃、移住先でお世話になった方の事業を手伝うことになりました。
最初は少ないながらお金をいただいていたのですが、「お金がない…」と相談を受け、事業の立ち上げ初期は金銭的に厳しいのはわかっていたので、報酬を受け取らずにやることになりました。

そんな風に、忙しいけど収入はない、むしろ支出が増える(打ち合わせなどでお金が毎回出ていきました)状況で、友人と娘の生活費も出していたので、毎月マイナス家計となりました。

不思議なもので、これはマズイと思いバイトをすると、その後、体を壊し、バイト代がまるまる治療費で消えていくというようなことが続き、足掻いても無駄な状況が続きました。

今思うと、神様がボクを鍛えてくださっていたのかなと思います。

就職がうまくいかなかった友人は起業し、最初の1年は収益がなかなか出なかったのですが、2年目で何とか軌道に乗り始めました。

これで、生活費は何とかなるかなと思ったタイミングで、今度は急に引越しすることになりました。

引越しの理由は、飼ってはいけない契約のマンションで猫を飼っていたからです。
全くの自業自得です。
申し訳ないです。

こうして友人はそのまま残り、ボクと猫だけ引越しをすることになりました。

とはいえ、貯金は全くのゼロ。
しかもちょうど車を買ったばかりで、その支出もありました。
車自体はありがたいことに安く譲っていただけたのですが、整備費がかなりかかり、愕然としました。

友人は、それまでボクが払っていた生活費分を払ってくれましたが、引越しと車の整備費の支払いで、全くお金がなくなりました。

ちょうどその頃、ボクは大きめの仕事の依頼を受け、成功させていました。
なので、「今はお金はないけど、その報酬で何とか乗り越えられる!」と期待していたのですが、いただいた報酬は、当初予定していた報酬の1/4しかもらえませんでした。
どうしていいかわからず、祈ることしか出来なくなりました。

クリスチャンになって、み言葉に従って生きている方々は、お金に執着はないと思います。

ボクもそう思ってました。

しかし、お金があるうちは、心に余裕を持って「お金に執着はない」と言えても、本当にお金がなくなった時、ボクの心はお金の執着だらけでした。

それまで気持ちよく友人の生活費を出していたのに、心の中で友人を責める気持ちが出てきました。

「これはいけない、自分の状況に左右されているなら、ボクは金持ちの青年と同じ状態だ」
そんな風に思いました。

引っ越しした先で財布を開くと、財布の中には数百円しかない状況で、冷蔵庫は空っぽ。

あるのはたまたまもらったニンニクと唐辛子のみ。

どうやって次の給料日まで生きていこうか、という状況で、ニンニクを見つめながら思いました。

「余裕があるときは良いことを言うくせに、こうやってピンチになると手のひら返すような人にはなりたくない。神様がここまで導いてくださって、さらにこの状況を許したのだから、きっと意味があるんだ。だから思い悩むのはやめよう!」

そう決意して、なけなしの小銭で容器とオリーブオイルを買って、ガーリックオイル(アーリオオーリオ)を作って友人にプレゼントしました。

そうしたらその後、不思議と色んな方から野菜をいただくことになり、結局乗り切れました。

やはり神様は見守って下さっていました。
神様に感謝です。

その後、先程紹介したバイブルアンサーや、そのほかの説教を通じて、聖書的で健全な金銭観を、持てたような気がします。

ボクは頑固なので、ちょっと荒療治をしないと素直になれないと、きっと神様はご存知なのですね。

「いざ」に備えて

お金に執着したり、お金の為に生きることは、クリスチャンとして見直さなければならない点だと思います。

しかし、それぞれのクリスチャンには、様々な賜物があり、お金を稼ぐことが出来るクリスチャンは世の中の人に貢献して、しっかり稼いで成功すべきだと、今は思います。

そうして稼いだお金や、影響力をどう使うかが大切ですよね。

ボクにお金を稼ぐタラントが与えられているかは、いまだに分かりませんが(たぶんないですが)、与えられた働きには、最善を尽くし、その結果いただける報酬は感謝して受け取ろうと思っています。

お金に関わらず、人は余裕がある時は親切に出来たり、許せたりするものですが、
平穏な時ではなく「いざ」という時がその人の本質です。

これから世の中は終末に向けて、混乱が加速していくように思います。
最終時代に起こる「いざ」というとき、どのような選択をすることが出来るか。
それが問われている気がします。

まだ、準備期間である「今」この時に、「いざ」を体験できたことは、本当に感謝です。

艱難に備えて、神様が訓練させてくださいました。
そして、最後は神様が守ってくださることも、体験を通じて理解することが出来ました。

これからもたくさんの「いざ」が来ると思いますが、その時こそ、神様の御心を選択する信仰を持ち続けたいと思います。


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