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天国に行きたくない4つの理由!?

こんにちは!
新米クリスチャンのリョウです。

このブログは、全くのノンクリスチャンだったボクが、
クリスチャンとして導かれ、その中で見たもの感じたことなどを
気ままに書き綴っていこうかと思っています。

不定期更新ですので、たまに覗いてみてください。

第十五回目は、「天国」についてお話をしたいと思います。

天国についての詳しい説明は、こちらの動画で語られているので、気になる方は是非観てみてください!
↓↓↓

天国に興味がなかった以前のボク

聖書に出会い、真理を学び始めた頃のボクは、
「人生を変えたい」「真理を知りたい」という思いは強かったのですが、
天国に対して、「行きたい!」とか「なんてすばらしいんだ!」とは
全く思っていませんでした。

それどころか教会で、天国の話になると、複雑な気持ちになっていました。(ネガティブな感情という程ではありませんでしたが…)

理由がいくつかあるのですが、
聖書を知らない人の中には、同じように考える方も多いのではないでしょうか?

今回は、ボクが何故天国に“惹かれなかったのか”を書いていこうと思います。

理由その1:リアリティがない

理屈で納得しないと信じられないボクにとって、天国という場所は全くのファンタジーに思えていました。

後に黙示録などを勉強していく中で、リアリティを増していきましたが、
当時は聖書に対する信頼が今ほどではなかったのと、学びの浅さゆえに
なんだか夢物語のように感じていました。

聖書に出会う前、漫画やアニメ、ゲームなどで夢のような世界をたくさん観ていたので、逆にそういう話をされると作り物っぽく感じてしまうんですね。

後に聖書を理解出来るようになると、天国をリアルに想像出来るようになりました。

黙示録に書いてある天の御国の記載部分を、現代のメートルで換算して
実際どれくらいの大きさがあるか、現代の地理や建造物と比べたりして感動していました笑。

結構おもしろいですよ!
やってみてください。

理由その2:現実逃避しているように感じる

クリスチャンにとって、世俗の生活は戦いの連続だと思います。
罪に満ち溢れた世界で生きていくのは、辛く苦しいものです。

もちろんクリスチャンでなくたって、この世界は悲しみの多い世界です。
ボクもそこから抜け出したくて聖書に出会ったので、この世の生きづらさを強く感じていました。

そういった前提がある中で、素晴らしい天国の話になると、嬉しくて楽しい気分になるのですが、そんな風景をはたから見ると、なんだか現実から目を背けているように感じてしまうことがあるわけです。

ノンクリスチャンの友人に、「クリスチャンは現実から目を背けて、あるかどうかもわからない天国を夢見ている。“今”を見ていない」と言われたことがあります。

「やるべきことをなおざりにして、夢を見ている人たち」
というようなレッテルを貼られているのです。

ですが、教会に通うようになり、兄弟姉妹の方々と交わっていくうちに、ボクの考えは変わっていきました。

クリスチャンはむしろこの世を懸命に生きていて、この世の義務を果たし、人のために生き、実に堅実に、現実的に“今”を生きていることが分かりました。

逆に神様を知らないノンクリスチャンの多くは(過去のボクも含めて)
ゲームやドラマ、アニメなどで現実逃避をし、それらに依存して生きているのだと感じました。

今を生きるって、言葉では簡単なようですが、実際は難しいです。
クリスチャンに対し、「今を生きていない!」
と言っていた友人は、
過去の誰かの言動で、毎日イライラしています。

今も生きているイエス様を、見つめて、
過去を赦し、悔い改め
明日を思い煩わず、
今を生きていきたいです。

理由その3:天国はつまらなそう

これは実際ボクはそこまで思ってはいませんでしたが、たまにこういった内容の事をいう人がいます。

人間が作った刺激的なコンテンツに慣れ親しんでいるので、そういった刺激がないと、面白くないと思ってしまうのです。

世俗の刺激的なコンテンツにどっぷり浸かっていたボクには、その気持ちは痛いほどよく分かります。

料理に例えると分かりやすいのですが、カロリーや添加物の多いジャンクフードを美味しい!と感じる人は、無添加で優しい味つけの健康的な食事を物足りなく感じてしまうんですよね。

でも、ジャンクフードを食べ続けていくとどうなるか、
食べている本人も自覚しているはずです。
でも止められないんです。(ものすごく気持ちが分かります)

中毒になってしまっているんです。ほとんど麻薬と一緒です。

ですから、「それがない天国なんて行きたくない!」
というのは、「麻薬のない天国になんて行きたくない!」

というようなものです。

しかし健康的な食事はどういうものかというと、例えば出汁のきいた味噌汁がじわーっと染みわたるあの感じです。

これが幸せなんだなと感じます。
そして体も心も健康的になり、ジャンクフードが美味しいと思えなくなります。

健康的な食事を続けている人は、食を楽しんではいないのでしょうか?
食べる喜びはないのでしょうか?
むしろ日々の食事に感謝が溢れ、ひとつひとつの食材の複雑な味わいを楽しむことが出来ます。

真の喜びは、そういうものではないかと今は思っています。

理由その4:永遠という概念が理解できない

「永遠の御国」「永遠の命」
あまりにも有限な人生を送ってきたボクにとって、
「永遠」というものの真の価値がイマイチ理解できませんでした。

先ほども話したように、この世は辛い世界です。

その中で1年過ごすのも、やっとなのに
1年どころか
100年、1000年…1億年…。
と考えると、途方もなさ過ぎてイメージがつかず、
そして、なんだか疲れるイメージがありました

ボクは子供のころ、外面的には優等生でしたが、実際は学校があまり好きではなく、ずっと我慢していました。

小学校のころ毎日、早く日曜日にならないかと考え
あと何回日曜日が来たら、この学期が終わる!!と指折り数えていました。

小学校2年生の終わりに、
「ようやく2年がたった。この長い期間をあと二回も繰り返さないと小学校卒業できないの? 卒業したと思ったら、今度は3年間中学校があって、その後高校も3年間ある。それも終わって、もし大学にも行こうものなら、4年間も通わなければならない…。
小学校2年間ですら辛かったのに、こんな地獄のような生活を何度も何度も繰り返さないといけないなんて!この世は地獄だ!!」
と絶望したのを覚えています。

そういった原体験もあったせいかもしれませんが、永遠という途方もない時間を提示されると、ちょっと萎縮してしまうのです。

現代に住む人たちにとって、永遠は決していい言葉ではない気がします。
ストレスの多い世界ですからね。

それよりも、限られた人生を太く短く生きよう!とか、
いつか終わるからこそ、意味のある人生にしよう!とか、
どうせ終わるなら楽しんだもん勝ちだ!という風な考え方の人が多いです。

作られた器が、その意味を成すのは、割られるその瞬間までであり、器としての存在の価値は、作り出されてから割れるまでの間にしかない。
だから、存在している今を大切にしよう。

…というような世界観です。

長くそういった世界観に沿って生きてきたボクにとって、
永遠”は受け入れがたい概念だったんですね。

でも、有限な世界での人生を振り返ってみて思うのは、いつも恐怖を感じていたということでした。

死ぬことへの恐怖ではなく、失うことへの恐怖です。

例えば愛する人が出来たとき
「いつかこの人はボクを愛さなくなる日がくるのかな。たとえそうでなくても、必ず死が訪れ、この幸せな時間は失われていくんだ」
と思っていたり、

仕事がうまく行き、仲間にも恵まれている。そんな風に人生でいいことが立て続けに起きたとき
「今はいいけど、このうれしい状態は長くは続かないんだろうな」
と、内心身構えてしまったり。

もっと身近な例だと、
旅行をして最高に楽しいのに、最終日に近づくと何だか寂しい気持ちになる。

このような気持ちは、多くの人が感じる事ではないでしょうか?

だからこそ、今ある幸せを大切にしようと思いはするのですが、こういった考えが続くと、幸せになるのが少しずつ怖くなっていくんですよね。

幸せと終わりが、必ずセットだからです。

明けない夜がないように
暮れない昼もない
なら幸せは、必要以上に感じない方がいい。
幸せが大きければ大きいほど、別れが辛くなるから。

これが聖書に出会う前のボクの考えでした。

聖書に出会って“永遠”があると知って、受け入れがたく感じていたボクですが、
ある日ふと思いました。

今ボクは猫を飼っているのですが、大好きな飼い猫と一緒に寝ていると、とても癒されて幸せな気持ちになります。

でも、動物を飼うということは、いつか別れが来ることも覚悟しなければならない現実があります。

大好きな猫を撫でているときに感じました。

「天国には、別れがないんだ。幸せを思う存分味わい尽くしていいんだ。この想いが永遠に続くんだ」

ただ永遠という時間だけをプレゼントすると言われても、
ピンと来なかったボクでしたが、聖書はそのようには言っていませんでした。

痛みも苦しみも、悲しみもない、幸せな時間。満たされる時間。
それが、永遠に続くのです。
天国には夜は来ないのです。

愛する猫を撫でながら、ボクはそのことを悟りました。

天国を求めることの本当の意味

こうしてボクは一つずつ、天国に対する誤解を解いていきました。
そして、クリスチャンとして天国を求めるということは、
今の生活を全て捨てて、天国を夢見て生きていくということではなく、
むしろこの悲しい世界を天国のような愛の世界にすることが使命なのだと学びました。

まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

マタイによる福音書 6:33

クリスチャンがイエス様と共に生き、イエス様の品性を表すとき、
この悲しい世界に光が灯ります。
この世が天国に変わります。

あなたがたは、地の塩である。
もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。
もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。
むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、
そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、
天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

マタイによる福音書 5:13-16

まだまだひよっこクリスチャンのボクですが、
天国を求め、天にふさわしい品性を身につけ、地の塩、世の光となる

そんなクリスチャンになりたいです。


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