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ヤドンとコダックと私

小さい頃に好きだったポケモンを思い出した。

私は、いつもぼーっとしてる、おとぼけポケモンのヤドンとコダックが好きだった。
今考えてみると、’’彼ら’’はどこか社会不適合でそんな姿が愛おしい。

‘’彼ら’’にサラリーマンが務まるようには到底思えない。競争社会とはどこか無縁な性格である。

私は小さい頃は、’’彼ら’’に似ていた。
鈍臭い、のろまって言われて育っていた。
それでもいいと思っていたのだが、現実はむずかしい。

授業参観の日
私はボーッとしていて、気が付いたら
みんなが手をあげてる。「ハイ!ハイ!」っと先生にアピールしてる。
私は先生が何の質問していたのか分からない。当てられないように、小さくゆっくりと、お釈迦さんの手のポーズのような挙げ方をする。

授業が終わって、後ろに立ってる母が少し呆れたように、
「諒ちゃんだけ手を挙げてなかったよ。」
と私を小突く。そし次の授業に向かうも、私はまた同じことを繰り返す。

友達と呼べる子は、ほとんどいなかった。
ただ一人で、「どうして、おはしは、お•は•し•って呼ぶんだろう」と考えていた。
そして時々、「死んだらどこに行くのだろう」と考えて、堪らなく怖くなってた。
基本的にのんびりと一人で楽しく暮らしてたのが、またも現実はむずかしい。

小学校三年の時に個人面談があった。
母は担任から私の学校での様子を聞いてきた。
家に帰ってくると、母は深刻そうな顔で
「あなた学校でいつも一人でいるの?」
と私を心配した。

私は、一人でいることが、母を心配させるようなことだと思っていなかった。とても焦った。
母を心配させないために、クラスの輪に入れるように努力するようになった。

ここからは、のんびりしてると友達ができないので、せかせかと話すようになった。またおちゃらけながらも、人目は気にする、道化っぽい振る舞いになった。友達は徐々に増えていった。
でも私は明確にここから、好きだった”彼ら”とは違う人間になっていった。

私は大学の途中まで、せかせかと生きていたが、限界を迎えて、大学を休学した。
休学中はユング心理学に没頭した。当時、自分は何者なのか、宇宙は何なのか、知りたくてひたすらに探究していった。

探求すればするほど、宇宙の事を理解してくる。しかし、探求すればするほど、無意味だと気がつく。宇宙は陽と陰のようで、とても面白かった。
陽と陰を同時に見た時、その中間地点の綱渡りのような部分に気がつくと、もうこの探求の私なりの答えが、なんとなく分かってきた。



男っぽさ
女っぽさ

尖ってる凸
へこんでる凹

完璧なものは
どこか未完成
だけど
未完成なものは
どこか完璧

悲しみの後には
慈しみが芽生え
慈しみが芽生えれば
また悲しみを知る

陽が沈んだら
陰は来る
それでも
朝になったら
夜は明ける

そんな世界に生まれては死んでいく私達
だけど
そんな世界に居るんだから
死んだらきっとまた生まれ変わる私達

その繋ぎ目はどこか綱渡り
だけど
永遠の安らぎがきっとある




最近やたらヤドンとコダックのことが気になるので、インターネットで調べてみたら、『ヤドンの悟り、サトシの悟り』というタイトルの回が放送されていたらしい。

詳細を読むと、
ヤドンは自分が一体何者なのかという悩みを抱えている。ヤドンは悟りを得るために、道場に通って修行している。心を無にして釣りをして、貝殻のポケモン、シェルダーに尻尾を挟まれて、ヤドランに進化する。
こんな話のようだ。

子供の時に見たとても印象深いヤドランとコダックのエピソードシーンがある。

ヤドランにシンパシーを感じてるのがコダックだった。二人は穏やかに、お互いのことを見つめる。理解し合ってるのかは、分からない。ただ、懐かしい旧友と再会したかのように、ようやく穏やかな友達に出逢えたかのように、夕陽を背景に見つめ合う二人は印象的だった。

一時期は、’’彼ら’’とは別になってしまったと感じていた私だったが、どうやら、深い部分では同じなのかもしれない。

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