エッセイ : 勝手

皆さん、お久しぶり。
4月、春休みである。
高専の春休みは約一ヶ月ある。僕の場合、次年度からは五年生であり、編入試験のためにこの一ヶ月は勉強漬けであらねばならない。開始一週間は前記に従い、らしくもなく勤勉であった。
だがしかし、今なおモチベーションは衰える一方である。

気晴らしにブックオフに行ったり、TSUTAYAに行ったり(元々インドア派なので、出掛ける目的がいつも本の購入であることは察していただきたい)と、日に日に気晴らしの回数は増えていった。何回目かの気晴らしで、ブックオフへの道すがら、僕はなんとも言えない光景に気がついた。

車で十勝の田舎道をひた走っていた。
雄大な山、とてつもなく広い畑、まさに大自然。そういえば聞こえはいいのである。ただ、誇張を抜きにして言うと遠くの山を見渡せるほど何もない。見慣れてしまえば殺風景なものだ。
高速道路のように平坦な道が続く。運転があまり得意ではない僕にとっては危険が少なくて安心するんだけども(こんなことを言ってるからいつまでも運転が下手くそなんだ)。

帯広への道には国道と裏道、どっちを通っても行ける。街の直前で、裏道から国道への合流地点があるからだ。子どものころから通っている道なので、今になって新しい発見があるとも思っていなかった。
国道と裏道の境にあるケージを見つけた。
そのケージの上にはカラスが5羽ほど留まっていて、初めは不気味だなくらいにしか思っていなかった。
合流地点の「止まれ」で一時停止しているときに、ケージの中が見えた。

カラスが閉じ込められていた。
3羽くらいのカラスがケージの中でじっと外を見つめていた。
どうして?
カラスを買う人なんていないはず。いや、もしかしたらいるのかもしれないけれど、こんなにも飼いづらい場所はないだろう。車を停める場所もないし、近くに農家があるが、その農家の方が飼っているのなら敷地内にケージを設置すればいいことだし、なんにせよこんな場所に飼育小屋を建てる理由が見当たらなかった。
飼ってる訳じゃないのなら。なんだか悲しい想像しか出来なかった。
後に聞いた話によると、あれはカラス達への見せしめらしい。
カラスの農地への被害を抑えるための策のようだ。
効果は十分だと感じる。人間の僕でも、違う意味で近寄り難いと思った。
ケージの上のカラスはどこまでも自由で、すぐにでも空へ飛んで行ける。
方や見せしめのために入れられたカラスは小さなケージの中でしか生きられない。
同じ種類の生き物であるはずなのに、人間の勝手によって本来とは真逆の生き方を強いられている。
動物園なんかも広く見ればそうなのかもしれない。
昔、動物園の猿山を見て餌を投げて喜んでいたけれど、今考えてみればその光景にも物悲しさを感じる。

僕ら人間はわりと自由だ。
ある程度のルールを守っていれば、どこへだって行ける。社会に属していれば文句を言われることもなく、少しの批判を無視すれば新しいことだって始めることができる。
ただ、人の都合で捕らえられた生き物はどうだろう。飼い猫、飼い犬なんかはそれなりに幸せかもしれない。外に出られるものもいる。
それじゃあ人に見られるための動物は果たして幸せなんだろうか。
それじゃあ人に食べられるために飼われている生物は幸せなんだろうか。
考えてもキリがないのだと思う。答えがないし、正しさもない。色んな正しさがあって、人だけにとって見ればどれも悪と言うことは出来ない。カラスのことだってそうだ。農家への被害を減らすための行動の背景には、生きていくためという大義がある。
それを真に責められる人が果たしてこの世の中にいるんだろうか。
いつも何かを犠牲にして生きている。その上に気づかないうちに立っているのが、人なんだと感じた。

こんなことを逐一考えていた矢先、母が生きた毛ガニを二杯買ってきた。
発泡スチロールに入れられた毛ガニ達はまだ元気そうだった。新鮮だねなんて言われながら、グツグツと沸騰した土鍋の中へ沈んでいった。
見てられなかった。ああ、苦しそう。
ごめん。毛ガニ。年がらにもなく、そう言いたくなった。
夕食に出た。
脚をボキボキと折られていく毛ガニ達の姿に生きていた頃の面影はない。ごめんといった手前こんなことを言うのは大変忍びないのだけれど、正直に言おうと思う。
脚を一本頂いた。
「最高にうまいわ、毛ガニ。」
人は勝手な生き物で、なにも返すことは出来ないけれど、せめてこの毛ガニは身一つ余さず綺麗に頂こうと思う。

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