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自分の人生を自分で意味付けたい--『あのこは貴族』感想

※こちらネタバレを含みますのでご注意ください

連休に入り、いつも年末年始ってどう過ごしていたっけ?と思いながら、結局思い出せずに掃除と買い物をしていたら連休が終わろうとしています。家をキレイにしてから年を越したいと思うのは、私だけでしょうか?

と言いつつ、掃除を差し置いてなぜか文章を書いていたのは内緒です。これも自分の頭の掃除になっているかもしれない!と思いながら、しっかり机に向かって書いていました笑

映画の公開前からずっと気になっていた映画の一つに「あのこは貴族」があって、それが最近、会員制の動画サービスで見られることに気づきました。予告を見ていて、人間関係や登場人物の価値観・心情の変化が面白そうだなと思っていたのです。

せっかくだし知人に教えてあげよう!と思って話したら、「もう見た」との回答。しかも、「貴族でもないし上京したこともないから共感できなかった」と言っていました。東京生まれ東京育ちには退屈なのかしら?とやや気になりながら、見てみることにしました。

あらすじ

物語の主人公は榛原華子。華子はホテルで家族と会食するようなお家柄。周囲の影響もあって早く結婚"しなくてはいけない"と感じているのに、20代後半で付き合っていた男性と別れてしまい、焦って相手を探す。ようやく見つけた相手は、良家の弁護士の幸一郎だった。

自分の人生を切り開いていく華子

この物語がいいなーと感じるのはたぶん、華子が決断によって自分の人生を切り開いていく様が魅力的だからだと思います。

当初、華子は結婚のために、たくさんの人を紹介してもらいます。それは、本人の意思が存在せず、「早く結婚しなくてはいけない」という義務感からの行動にも見えました。

だからでしょうか。その後に離婚を選択できることが魅力的に見えたのです。離婚の挨拶の前にも、華子と幸一郎が会話するシーンがいくつかあって。

華子)私にできることがあったら言ってね
幸一郎)結婚してくれただけで充分だよ
華子)それでも言って欲しいの。なんでもいいから。困ってることとか、この先の夢とか。
幸一郎)華子にはさ...夢なんかあるの?俺はまともに家を継ぎたいだけだよ
華子)あのとき話した映画って見てくれた?
幸一郎)なんだっけ?
華子)最初に会った日に話した映画
幸一郎)あっ、いや...
華子)絶対見てないと思った

一つ目の会話で華子は、夫の夢を支えることに生きがいを見つけようとしているように見えるシーン。しかし幸一郎には夢なんてなく、家を継ぐことを大事にしています。

そして二つ目の会話は、幸一郎が華子の好きなものに興味を持っているか確認する会話です。幸一郎が家を継ぐために無難な相手として華子を選んでいて、華子の好きなものを気にしていないことが明確になっています。

よくある物語では、この会話の後から幸一郎が華子の好みをより気にするようになり、夫婦が仲良くなる方向に進みそうなもの。しかし華子は幸一郎を振り向かせようとしません。むしろ1人で生きていこうとします。それって、とてもすごいことだと思うのです。

だってこれらの会話までの流れで、華子は期待された孫の顔を見せることができていません。求められている嫁としての役割を果たせてないと感じていたら、肩身が狭くなっていそう。

その上、幸一郎が家を守ることしか考えていなくて、自分に関心ないんだなと思ったら、余計に居場所がありません。だったら、幸一郎を味方につける方が変化は少なくて済みそうです。でも華子はそれをしない。

そもそも、家柄を大事にする親族同士なら、離婚することのハードルは推し量れないほど高いでしょう。華子が両親と挨拶に行って頭を下げるシーンからも、容易ではないことがわかります。しかし華子はハードルの高さを理解していても、安易に幸一郎との関係を続けようとしていません。

華子にとって離婚という選択は、幸一郎が家を継ぐことを尊重しつつ、自分を幸せにする選択だったのでしょう。険しいとわかりながらそのリスクを取って前向きに生きる華子の姿は、とても輝いて見えます。

"ほんとうの私"なんてものはない

話は変わって、最近、本を読みました。菅野仁の『ジンメル・つながりの哲学』です。「社会の中での人間関係を考える参考に」と思って手に取ったこの本の考え方も、華子の行動を考察する参考になりました。

この本はドイツの思想家、ゲオルク・ジンメルの思想を菅野氏が解釈したものなのですが、その一部に"ほんとうの私"について説明する章があります。

簡単に言うと、「"ほんとうの私"なんてものはない。人間は多様な役割を持って生きている。しかし、一つの役割だけしか考慮されなかったり、他者から求められている役割と自分が了解する役割が異なったりすると、ここは"ほんとうの私"を活かす場所でないと感じる可能性がある」となります(かなり省略しているので、詳しくは本を読んでご確認ください)。

「仕事だから」と他の事情をそっちのけで業務の遂行だけを求められて、その場所が心地よいと感じる人はいません。時には体調不良や家庭の事情などで、当人にとって仕事よりも優先すべきことが発生することもあります。そんな時に仕事の優先を強要されると、「ここは自分の居場所ではない」と感じるかもしれません。あくまでも、本人の了解の話なので、人によって許容できる範囲は異なると思いますが。

家を守る役割も一つの役割なのでは?

さて、華子の場合はどうでしょうか。

終始、個人の価値観よりも家の価値観を守っている華子は、家を守る役割から逸脱することを許されません。簡単に推測できるところだけでも、早く結婚すること、良家の嫁として賢く品行方正であること、後継ぎとなる子供を産むこと等の役割を求められ続けています。

他の事情や意向を考慮されることはなく、常にこれらが求められたら……それは、"一つの役割だけしか考慮されない"ことであり、「ここは自分の居場所ではない」と感じる理由になるのではないでしょうか。(無論、幸一郎のように、夢は無く家を継ぐことだけを使命とする人もいるとは思いますが)

決断の大変さとそれによる自信

最後のシーンで、主人公は別れた旦那に向かって自信いっぱいの微笑みを見せます。それは、自分で人生を決めたことからくる自信であって、そのまま結婚生活を続けて"家を守る"ことに縛られていたら、できなかった表情かもしれません。

私だったらこんな自信を持って笑えるだろうか?と妄想してみても、絶対ムリです。集団の規範から外れることはかなり怖い。しかもそれが親族の守る規範ならもっと怖い。ただでさえ社会とのつながりがなくなってしまったり、人生が終わってしまって再起不能になってしまうんじゃないかとさえ思ったりするのに、家族の縁が切れて自分を何者とも言えなくなってしまいそうな不安すらある。

でも"集団の規範から外れる怖さ"という話に限れば、それはある集団の中で生きる中での規範であって、世の中に普遍的に守られているルールではありません。他の集団には異なるルールがあって、もしかしたら自分に合ったルールを守る集団があるかもしれません。

映画を見る人のほとんどは、きっと華子の家庭環境に共感できないでしょう。だって貴族じゃないし。でもそこに共感できなくても、「自分は納得して生きているか」を振り返ることはできるし、決断に不安が残っても「その日何があったか話せる人がいるだけでとりあえずは充分」と思えるかもしれません。

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