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「保邑リュウジ」の本を出版?

バタバタしながらも、何とかスキルシェアサイトでの脚本を1本書き終わった。すぐに、次の1本に取りかからなければならない。全く毛色が違う作品のオーダーなので、しばし頭の中を空っぽにする必要がある。


ところで、先日、ビジネス系SNSのLinkedinで知り合った方から紹介された方と、リモートでお話をしていた。僕の脚本家としてのスキルを、ビジネスで使えないか、という相談をさせていただいた。

その話の流れで、ブランディングのためには本を出版した方がいい、という話になった。電子書籍でもいいのだが、紙の本の方が信用度がある。その方に見せていただいた実業家さん(?)の紹介サイトでも、最初のページにその人の著書の表紙の写真が掲載されていた。それだけで、その人がそれなりに信頼がおける人であり、その人の言葉には信用性がある、と思えてくる。それがブランディングの重要な要素となり、新たな仕事を引き込んでくる。

出版業界が絵に描いたような右肩下がりが続いていても、本を出版するというのは、それ程大きなことであり、パブリックなことだと認識されている。


そういえば、と思い出した。最近関係が切れたある知人から、同じようにブランディングのための「名刺本」の出版を勧められていたのだ。考えることは同じ、ということは、かなりの程度それは正攻法なのだろう。

そこで、はたと困ってしまった。僕は、一体全体どんな本を書けばいいというのだろうか。例えば、ビジネスで成功したとか、文学で大きな賞を取ったとか、そういう実績があるのなら、それについて書けばいい。「○○するだけで、××でこんなに儲かる」みたいなビジネスのハウツー本とか、独自の芸術論・文化論から最近の社会情勢の分析まで、書けることは色々あるだろう。それを読んだ人がある程度納得できたり、同じように実践してみてある程度成功したりすれば、その口コミが広がって、本はさらに売れるだろうし、書いた本人の地名度や信頼性も上がる。

だが、僕にはそういった「実績」が全くといっていい程ないのだ。ビジネスではいつまで経っても道半ばだし、書いたもので賞をもらったこともない。前も書いたと思うが、「賞」をもらうこと=知り合い以外の第三者の(ある程度客観的な)評価であるから、それを持っていないというのは、客観的に評価されていない(評価しているのは知り合いだけ=評価の信頼性・客観性が低い)ということに等しい。そんな人の言葉を、誰が読みたがるだろう。ましてや、タイパが重視される世の中である。役に立たない本を読む時間は、誰にもない。


それでも何とか出版に漕ぎつけようと思うと、自費出版しかない。だが、誤解を恐れずにいえば、自費出版は自己満足に過ぎない。誰かに求められての出版ではなく、「私の本を読んで下さい!」と著者本人が自腹を切って出すのである。これは、小劇場界が自己満足の塊と思われていることとパラレルである。自腹を切って何かをやる時、それは十中八九自己満足の世界である。何故なら、需要もあるし、お金もある程度儲かるという目論見がなければ、他者(この場合は出版社)はお金を出してはくれない。

自己満足でも、本を出す価値があるのか?ということである。

そして、もしそれでも出すとしたら、どんな中身にするのか?ということも問題になる。以前、出版の話をしていた時に、本当にざっくりと書いた構成案がある。それがそのまま使えるのかどうか不明だ。


「保邑リュウジ」という人物に興味を持ってくれた人が、おそらく本を手に取る。その逆ではない。つまり、卵が先か鶏が先かの議論だが、まず保邑リュウジが何かで衆目を集め、それから本を出す。それが王道だと思うのだ。ところが、これからやろうとするのは、その逆である。本から火がついて、保邑リュウジが注目される。所謂、バズるというやつだ。それを狙っていかなくてはならない。

かなり困難を極め、緻密な計算が必要になると思うが、協力者がいれば、できないことはないだろう。甘いかも知れないが、そう思う。

もう一度、出版プロジェクトを動かすことを考えてみようか…。


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