【1960年生まれ・COPD発症・現代アート制作と読書で日々是好日】

【1960年生まれ・COPD発症・現代アート制作と読書で日々是好日00002】

「これはアートではない」と付して(=タイトルとして付して)、さまざまな画像を作品として公開し続けたら、人々の評価は如何なるものとなるのだろうか? それもこれもアートだと評価するのか? それともその行為自体をアートと評価するのだろうか? いやすべてアートではないと評価するのだろうか? その画像自体が、アートではないもの、アートだと思われているだろうもの、さまざまに混在している場合には、人々は何を基準にアートとアートではないものを区別するのだろうか?

それはアートなのか?と。

そして、私がアートと判断する作品と、私以外の誰かがアートと判断する作品は、常に異なるのではなかっただろうか。いくつか同じ作品をアートと判断するかもしれないが、そのほとんどは、アートかアートではないかで判断が異なるのだ。いやアートというよりは厳密には現代アートではあるが。

では何をもって現代アートと定義されるのだろうか? 美術館に収蔵されることだろうか? 美術館で個展が開催されることだろうか? アート・マーケット=アート・オークションで高額で取り引きされることだろうか?

常に現代アートは定義や判断が人によって異なり、常に揺らいでいるのではないだろうか? 現代アート作品であると定義も判断もされるには、そのような相対的な定義や判断に頼るしかないということだろうか? 現代アートの定義は、常に揺らいでいる、それが真実なのだとすれば?

そうであるのであれば、たとえば、私が現在において制作し続けている作品群(「ART=・」の究極の世界標準の現代アート作品)は、その一点一点が「これは点による究極の現代アート作品である」「これは点や線、即興的な線描による究極の現代アート作品である」と、常に現代アートの定義を提言し続けるだけの存在だということだ。 それが現代アート作品だと主張するのであれば、常に、作品自体が「これは現代アート作品である」という意味を第一義のものとして、しかも表向きに名指しするのではなく(表向きに名指しすればそれだけの意味しか持ち得ない)、コノテーションとして暗示していないといけないのではないか。

そうだとすれば、作品の意味は「これは現代アート作品である」という意味以外には不要なのではないだろうか。だから現代アート作品であるならば、作品自体は、限りなく無に近いような究極の表面をこそ最も重要視しなければならないのである。それが点や線、即興的な線描による作品なのだ。

意味など不要である。 表面しかなくて良い。 深層などは幻想にほかならない。 点だけがある。点しかない。点や線、即興的な線描による展開だけがある。 それらは、まさに『現代アート』という意味しか表現していないのであり、それで充分なのだ。『現代アート』という意味以外の何が必要だというのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?