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吉田さんの一撃

退職が決まった吉田さんに、僕は突然会社の裏の駐車場に呼び出された。吉田さんは僕が入社した時には既にお荷物のような扱いを受けて窓際に追いやられていたおじいちゃん社員だった。歳は確か60少し過ぎだったと思う。ほとんどまともに話した記憶もない。何故急にそんな所に呼び出されたのか全く意味が分からなかったが、とりあえず駐車場でタバコを吸いながら待っていると、そこにひょこひょこと吉田さんがやってきた。

「急にこんな所に呼び立ててすみませんね」吉田さんは丁寧にそう言った。「いえ、大丈夫です。それであの、どういった用件でしょうか?」「あなたは確か格闘技が好きだという話を聞いたことがあるように思ったのですが、違いましたか?」吉田さんはあくまでも丁寧にそう言った。僕の格闘技好きは会社でも有名だった。休みのたびに色々な団体の試合を見に行ったり、格闘技を見るために有給を使うこともよくあった。吉田さんもきっとどこかで聞いたのだろう。しかしそれが何だと言うのだ?「はい、そうですけど……それが何か?」「いやいや、私も実は武術をやっていましてね。格闘技好きなら退職する前に一度見ていただこうと思ったんですよ」そう言って吉田さんはにっこりと笑った。

ジャケットを脱いだ吉田さんはより一層小さく見えた。ぐるんと1回肩を回して、スっと淀みなく空手の正拳突きのように構えた瞬間、吉田さんの身体が倍の大きさになったような錯覚があった。あれ?と思った次の刹那、シュッと鋭い息を一つ吐きながら吉田さんは突きを放った。それは僕が見てきたどの一流の格闘家のパンチよりも速く強く鋭く、いくら突然だったとは言え全く見えなかった。腰にあった右拳が一瞬で肩の高さに水平に突き出され、遅れてパンっと空気を破るような音がした気がした。僕が初めて見た、『ホンモノ』の一撃だった。

興奮する僕に向かって、吉田さんはぽつぽつと話をしてくれた。自分が江戸時代から続く一子相伝の武道の継承者であること。小さい頃からずっと毎日修行を続けてきたこと。自分は子供が出来ない体質でこの技は自分の代で途絶えてしまうということ…。「最後にね、誰かに見て欲しいと思ったんですよ」吉田さんは寂しそうにそう漏らした。「こんな風に自分の技をひけらかしたいなんて言うのは、自分が未熟である証拠ですね。私もまだまだです」そう言って吉田さんは笑った。僕はなんと言っていいか分からなかった。

それから程なくして吉田さんは会社を辞めた。奥さんと一緒に長野の山の方に引っ越して静かに暮らしていると聞いた。おそらく吉田さんはまだ、誰に言われるでもなく毎日修行を続けているのだと思う。世界で僕だけしか知らない、最強の技を持つ男。いつかまたあの技を見せてもらいに会いに行けたらいいなと思っている。

……なんてことを思っていたら、吉田さんはyoutubeチャンネルを開設して、一子相伝の技を惜しげもなく公開し始めた。あれよあれよとチャンネル登録者数も増えて、あっという間に人気武道系youtuberになってしまった。年末の格闘技イベントで演武をやるのも決まったらしい。12月28日、さいたまスーパーアリーナ、僕は絶対にいい席を取るつもりだ。

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