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飛沫が怖くてマスクを外せないのは生命への冒涜である。

Twitter上で、中学生がマスクを取れない理由の一つとして、とにかく飛沫が怖いと訴える、と言う話を最近見かけた。Twitter上では、未だに飲食店で店員の飛沫がかかったドリンクを受け取れないだの、料理人はずっとマスクをしているべきだの、といった書き込みも健在である。

料理人の飛沫がかかっているから食べられない!?

2023年5月25日。大阪梅田のマスク率は下がってきたとはいえ、未だに約7割がマスクを続けている。この3年間、40℃近い酷暑の炎天下でもマスクをし続けた国民であるから、気温が上昇すれば外すだろうという楽観論は当たらないと私は考えているが、残念ながらその通りになりそうだ。

上記のような書き込みが実際の日本人の心情をどの程度反映しているのかは分からないが、未だに7割の国民が頑なにマスクを続けているのだから、「飛沫コワい」の根深さは想像に難くない。

もちろん飛沫以外にも顔を見られたくないとかメイクがめんどくさいとかそれぞれが「外さない理由」を並べ立てるだろう。 

この記事では、飛沫恐怖に着眼し、これを「全否定」する。 

ヒマツコワイ」。これは、思考ではない。むしろ極めて原始的な脊髄反射に近い。

3年前、ほぼ全ての国民が富岳のシミュレーション映像により飛沫への恐怖を植え付けられた。健全に生きる人の間ではあれが諸悪の根源であることは共通認識である。 

恐怖と言うのは動物においてもっとも原始的な情動の一つである。
そこに理論も理屈も存在しないのだ。
高いところが怖い。暗闇が怖い。ヘビが怖い。
そこに理屈がないのと同じだ。

あの映像により、国民は、片道切符で「飛沫恐怖」の世界への改札をくぐってしまった。戻る方法は、ほとんどない。そして、改札の向こう側に入ったが最後、どのような合理的・科学的説明も受け入れなくなる。
飛沫の映像と言う視覚刺激により脳内に非常に抽象的な心象が作り上げられ、飛沫と言う概念が恐怖と言う生体反応に直結する強固な回路が形成されてしまった。 

ここで「思考」と「思考停止」について考える。
「思考」とは人間のみが行い得る言語を用いた高度な精神活動である。一方、人間も動物である以上、外部刺激に対する動物的反応を繰り返して生きている。その一つが、恐怖である。 

動物は外的刺激への反応で行動する。しかし人間は、刺激に対する反応を吟味することができるし、必要に応じてしなければならない。
それが理性なのだ。

つまり、本来は自分に生じた恐怖と言う情動を言語により吟味し、その正当性を考察できるはずであった。つまり、最初は恐怖に震えても、いずれ「本当に怖いものなのか?」「そんなに怖がることはなかった」と言う考えに至ることができたはずだ。だが今回の騒動で多くの国民が思考を放棄した。 

何故そのようなことが起こったのか。前回の記事にも書いたが、それを解くカギは『群集心理』にあるかもしれない。

(『群集心理』ギュスターヴ・ル・ボン著 櫻井成夫 訳 講談社学術文庫)

群衆化した人間にはもはや思考はない。もともと高い知能を具えた個人さえ、群衆に取り込まれると、その知能は群衆の中でも最も低いレベルまで堕ちて機能しなくなる。 

群衆は脊髄反射で行動する。
いくら科学的に説明しても通らないのは、最初から思考が介在しないからだ。
雷に怯える犬に、雷について科学的に説明し、怯える必要はないと説得する飼い主がいるだろうか。
それと全く同じなのだ。 

飛沫恐怖に陥った中学生に、身近な大人一人や二人が合理的に語り掛けたところで言葉は彼の頭を通過するだけだ。
さらには思春期の反抗心も手伝って、身近な大人の言葉だからこそ「聞くもんか」と拒否さえするだろう。 

脱洗脳は、洗脳よりはるかに困難であり、かなわないこともある。

では、もう絶望するしかないのか?

群衆化して一律化した人間も完全に一律ではなく、恐怖の程度に多少の個人差はあっただろうから、程度の軽かった人は、徐々に群衆の最外殻へ移動し、やがては群衆からこぼれ落ち、個を取り戻すだろう。そのとき、夢から覚めたようにマスクを外すかもしれない。
残念ながら、群衆に飲まれていた時のことを内省することはないだろうが。

だが厳しい現状だ。
人間の特性は一様ではなく、正規分布を描くことが多い。飛沫恐怖の程度が正規分布を示すかどうか分からないが、そうだとしたら、今の時点で、中心の大きな山は未だ改札の中にある。
洗脳の程度の差こそあれ、7割が洗脳下にある。

全くのイメージ図です。線は「だいたい」です。
ただ、真ん中の山がマスク側にあるのは確実です。

脱洗脳は不可能ではないが、玉音放送なみの強烈な刺激が必要だろう。
そして解ける人間もいれば最後まで解けない人間もいる。
本来は、国を挙げて強力な脱洗脳の方策を取らねばならない話だが、そんなことは全く望めない。自治体、教育委員会、学校レベルでも期待できない。

では、気づいている我々は、諦めて黙ってみているしかないのだろうか。 

それはムリだ。 

群衆はいずれ自壊する。飲まれなかった者は、引き続き飲まれないように静かに語り掛続けるしかないのだ。
当たり前の原理原則を語り続けるのだ。

呼気は汚物ではない。 

呼気⇒汚物の強固な鎖を言葉の斧で叩き切るのだ。 

あなたが汚いと思っている呼気・飛沫とは何か。
生命体に欠くことのできない呼吸の産物だ。空気を吸って、肺胞に届け、酸素と二酸化炭素のガス交換を行い、呼気として吐き出す。
これが動物だ。
そして植物は光合成で二酸化炭素を吸収して酸素を出してくれている。
これが地球。命の循環。
何一つ目新しい話ではない。学校教育の知能があれば十分の話だ。 

では、飛沫と名付けられたものの正体は何か。 

動物は吠えたり鳴いたりしてコミュニケーションをとる。人間は、発語を手に入れた。普通の呼気と何が違うのか。
「声」は声帯が閉じた狭い隙間に呼気を通った際の振動で生じる。空気の通路が短くなるので通常の呼気よりも速度は速くなるから遠くへ届く。
呼気に交じって微粒子となった口腔内の水分も同時に呼出される。
これが飛沫だ。 

「他人のツバが飛ぶのが耐えられない」?
それは完全に間違った概念だ。
 

唾液とは何か。
学校で習ったはずだ。
医者の知識を振りかざすまでもない。うろ覚えで書いて間違えてはいけないので普通にネットで検索したが、いくらでも出てくる。

簡単に書いておく。
 
唾液とは、唾液腺から分泌される体液であり1日1-1.5Lもが口腔内に分泌され嚥下により吸収されていく。
唾液の成分は、99.5%が水分である。その水分はどこから来るか。口から飲んだ水が体内に吸収され、血液・リンパ液として循環している。言うまでもなく人間の身体の2/3は水である。その水が、廻り回って唾液として分泌されるのだ。そして残りの0.5%が、固形成分である。無機成分としてカルシウム、ナトリウム、リン酸が含まれる。これらは、口腔内の酸塩基平衡を保つのに役立っている。
有機成分にはムチン、IgA、ラクトフェリン、リゾチーム、リパーゼ、アミラーゼ、ヒスタチンなどが含まれる。
 
ムチンは唾液に適度な粘調性を与え、口腔内の湿潤環境を保ち保護する。
IgAは口腔内に入ってきた異物を最初に排除する重要な免疫作用を果たす。
アミラーゼは、食物の最初の消化作用を果たす。でんぷんの分解の実験は経験者も多いだろう。
他にも唾液は生命活動に欠かせない役割を数多く果たしている。 

唾液腺は動物が共通に持つ、生命活動を維持するためになくてはならない器官であり唾液がなければ生物は生きてはいけない。 

地球上に人間だけで80億人(その是非は置いといて)。「動物」はこの何倍いるのだろう。それらが全て、呼吸をしている。発声している。 

呼気を、飛沫を、唾液を汚物とみなすことは、その生命活動を否定することであり生きることへの冒涜である。

赤ん坊のよだれを拭くのに防護服を着る母親がどこにいる? 

ここまで書いても「見知らぬ人に唾を吐きかけられて平気なのか!」とかいう絡みが容易に予測される。
そんな話をしているのではない。私だって知らんおっさんに唾を吐きかけられるのは嫌だ。
意図的に唾を吐きかけるのと普通に会話するのとは全く次元が違う。

通常の会話時の呼気に含まれるエアロゾル化した口腔内の水分を汚物とみなすな、という話をしているのだ。
 
呼気は汚物ではない。
正気に戻れ。 

~おわり~

#創作大賞2023

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