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書きたいものだけを、書いて行きたい(太宰治)

貧しい創作集も既に十冊近く出版せられている。むこうから注文が来なくても、こちらで懸命に書いて持って行けば、三つに二つは買ってもらえるような気がして来た。これからが、愛嬌も何も無い大人の仕事である。書きたいものだけを、書いて行きたい。

太宰治『東京八景』(苦難の或人に贈る)

僕は、作業用BGMとして、YouTubeにUPされている文学作品の朗読動画を流す習慣がある。今日は、なんとなく『東京八景』の雰囲気を味わいたいと思ったので、西村俊彦氏の朗読動画を聞き流しながら、作業を行なっていた。


『東京八景』の内容は、お世辞にも明るいとは言えない。けれども、自身の半生を包み隠さぬ吐露していく中に、一筋の光を感じられるような気がする、そんな雰囲気を味わいたいと思った。ある意味、太宰らしい作品だと言えるし、僕からすれば「これぞ太宰の真骨頂」と形容したくなる、思い入れの強い作品であるため、何回も読み返しているし、何回も聞き返していると思う。

そんな中、作品の冒頭部分で出てくる「書きたいものだけを、書いて行きたい」という一文が、今日はなんだか、深く心に刺さってくるような感触があったのだ。

初見で触れた時も、ウンウンと頷いている自分が居たと、確かに記憶している。いわゆる「スル名文(スルメ名文の略。何度も読むにつれてジワジワ染み込んでくるような名文のこと)」の類ではない。そもそも表現がストレートだからダイレクトに伝わってくる。太宰好きを自称している僕からすれば、藤川球児の火の玉ストレートぐらいの球威で、ズバーンとミットを突き刺すぐらいには、心に響いてくるわけで。

(この感触はいったいなんだろう・・・)

作業の手を止めて、しばし物思いに耽ってみると、程なくして、答えが出た。昨日、僕が書いた日記記事が、密接に関係していると。

ハッキリ言って、駄作である。思い出すのも憚られるぐらいには、駄作なのである。なんなら、タイトル詐欺でもある。山本ひかるが結婚したというニュースを受けて、僕が感じたことや思ったことをつらつらと筆記しようと思ったものの、自分の心の声をありのまま吐露する勇気が出ず、なんだか、訳の分からぬことをのたまったまま、終わった。誇張表現抜きで、駄作以外の何物でもない。

「書きたいものだけを、書いて行きたい」が心に刺さったのは、昨日の日記記事を書いて、自分自身しっくりこないまま、心の奥底にモヤモヤを抱え込んでいたからだ、というところまでは分かったのだが、今度は別のことが気に掛かった。

僕は「山本ひかる結婚」の記事を作成するにあたって、ありのままの心情をさらけ出すことが出来ないままUPしたことに、自分自身、納得出来ていないのだろうか。「書きたいものを書けていない」という思いが眠っていたからこそ「書きたいものだけを、書いて行きたい」という一文に、心が揺れ動いたのであろうか?

いや・・・、そう、かもしれないけど、違う、気もする。僕自身、僕の本心が良く分かっていない感覚があるのもまた事実だけど、昨日の日記は昨日の日記で、(書く前の想定とは大きく異なるとはいえ)ある意味、僕としては「書きたいものだけを書く」に忠実に従った結果、だとも思っているのだ。

なぜだろう。本当に話したいと思うことほど、口が重たくなって、上手く話せなくなってしまうのは。どうでもいいことほど饒舌になり、どうでもよくないことほど寡黙になる。言いたいことが無いわけじゃないんだ。むしろ、言いたいことが有り過ぎるんだ。だから、頭の整理が追い付かない。複雑に入り組んだ思考を解きほぐして言語化するまでに多大な時間と労力を要する。それゆえ、会話のキャッチボールを成立させることが出来ず、テキトーな話題を持ち出して、テキトーに言葉を並べて、なあなあで終わらせてしまう。

浜脇流星『山本ひかる結婚』(日記)

僕は、山本ひかるが結婚したニュースはおろか、山本ひかる自体に触れようとすらせず、ただひたすら、出来の悪いポエムのような文章を書きしたためていた。これは「書きたいものを書けなかった結果」とも思われるし(タイトル詐欺は一旦脇に置くとして)「実は本当に書きたいものはこれだった」とも思われるのだ。

前者は、記事をUPした後の僕の心境にフォーカスして出た答え、後者は、記事を今まさに書いている瞬間の僕の心境にフォーカスして出た答え、なんじゃないかと思った。だから、一見、矛盾するようで、実は、矛盾していない。詭弁のように聞こえるかもしれないが、僕からすると、どちらも「真なり」だと感じたのだから、仕方あるまい。

【書きたいものだけを、書いて行きたい】

もしも本当に、書きたいものだけを書くことだけで自分の心が満たされるのであれば、noteのようなプラットフォームを利用しなくても良いはずだ。自分しか見ないメモ帳アプリやノートを用意して、「書きたいもの」だけを書いて行けば、それで済む話なのだから。

【書きたいものだけを、書いて行きたい】

その気持ちに嘘偽りは無い。それは断言出来る。けれども、おそらく、また別の、ドス黒い感情、言葉に表すのであれば、自分が書いた文章を読んで欲しい、自分が書いた文章を読んで何らか感じて欲しい、自分が書いた文章で心に刺さった箇所があったとコメントして欲しい・・・、挙げていけばキリが無いぐらいのエゴの塊が、心の奥底に眠っていることもまた、事実なのだろう。

【書きたいものだけを、書いて行きたい】

物書きを生業としている人にとっては永遠のテーマと言えるのかもしれない、などと、俯瞰的視点で受け取っている自分もいたのだけれども、全く、他人事ではなかった。生計を立てる手段としてではなく、趣味として、物書きを楽しんでいるつもりだった僕も、どこかで「趣味の枠組みを超える何か」に期待しているんだなと、気付くことが出来た。

【書きたいものだけを、書いて行きたい】

自分のエゴに気付けたからといって、何かが抜本的に変わる予感は無いし、実際に、目に見える部分で大きく変わることはないんじゃないか、とも思うのだけど、ただ一つ、昨日、執筆している状況とは異なることがある。頭の中がうるさい感じが無い。いわゆる「ブレインフォグ」と呼ばれるような状態ではない。至って正常だ。フラストレーションが溜まっている感じもしない。

「書きたいものだけを、ひたすら書いて行く」

実際は、エゴに支配されて、よく分からないことを書き出すんだろうな、とも思うけれども、意識の問題として「書きたいものだけを書く」ことを、常に念頭に置いて、執筆作業に当たろうと思う。今までの自分と異なる点は、理想と現実の乖離は起きる方が当たり前であると、葛藤状態を受け入れているところである。

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