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2023.07.14 金曜日


僕は「ありがとうございます」と返答するべき場面で「ごめんなさい」あるいは「申し訳ありません」と返答することを、良しとしていない。

例えば、電車移動をしている際、同じ車両に乗っている方が降車しようとした際、荷台に置かれたバッグをそのままにして、降りかけたケースを、想定してみて欲しい。

それに気付いた僕は「あの、バッグ置いたままですよ!」と声を掛け、バッグの存在を忘れていることを伝えたとしよう。

その人は、あやうくバッグを置き忘れたまま電車を降りるところだった、と感じながら、伝えてくれた僕に礼を告げたとする。

その際に「あっ、ありがとうございます!おかげで助かりました!」なのか「あ~、ごめんなさい!ついうっかりしてて~。」なのか「ああ、申し訳ないです。すいません。お手を煩わせてしまって…。」なのかで、その人に対するイメージは180度変わってくると思う。

僕の場合、今回挙げた3つで言うならば「ありがとうございます>ごめんなさい>申し訳ないです」の順番で、その人への印象の良し悪しが決まって来る。前者の方が良くて、後者の方が悪くなる。

「悪い」と書くと、少々、語弊があるかもしれない。それこそ相手に申し訳ない話だ。もう少し言葉を補足する必要がありそうだ。

要するに「ありがとうございます」の場合だと「いやあ良かったな。トラブルにならずに済んで。ホッと安堵した笑顔を見ることも出来たし(笑)」と思える一方で、「申し訳ないです」の場合だと「凄いペコペコ頭を下げられたなぁ。なんか逆にこっちが申し訳なく思えてくるなぁ…。」と思ってしまう、まぁ、そんな違いがあるわけだ。

このケーススタディから「行き過ぎた謙遜は逆に相手の機嫌を損ねてしまいかねない」といった気付き・学びを得ることが出来る。

よく「『謙虚』と『卑屈』は似て非なるものだ」などといった言い回しをされることもあるが、それに通ずる考え方だと言えるのかもしれない。

僕は「謙虚」と「卑屈」の違いは「結果の有無」だと心得ている。

つまり、誰の目から見ても明らかな結果を出している人が「私なんてまだまだです」といった態度で振る舞うと、周りの人は「これだけの功績を残されているのに、なんて謙虚な人なんだ」と、更なるプラス評価を受ける一方で、大した結果を出していないと思われている人が「私なんてまだまだです」といった態度で振る舞うと、周りの人は「向上心すら持ち合わせていないのか。卑屈な奴と居るとこっちまで気分が悪くなるよ」と、更なるマイナス評価を受ける、なんてことが起きたりする。

ココで着目するべき点は「発言だけを切り取れば全く同じ言葉を発している」というところにあると僕は考える。

「『何を言うか』よりも『誰が言うか』の方が大事だ」といった言い回しもよく聞くが、要はソレと同じことが起きているわけだ。「私なんてまだまだです」という言葉だけを真似たからといって、全く同じ結果を得ることには繋がらないのである。

具体的な人物の名前を出した方が想像しやすいだろうか。

例えば、王貞治さんが「私なんてまだまだです」と言っていて、聴衆が「あの王さんで『まだまだ』だったら、他の人はどうすればいいんだ…。」と、苦笑い混じりの感嘆の声を漏らしているのを見て、僕自身、その姿に、深い感銘を受けたとしよう。

そして、王さんの謙虚な振る舞いに憧れの念を抱いた僕は「私なんてまだまだです」という上辺の言葉だけを真似した、からといって、周りの人は、王さんの時のように、感嘆の声を漏らすはずがない。むしろ「誰から見ても当たり前の事実をわざわざ口に出して何がしたいんだ?」などと、小馬鹿にしたような視線を浴びることになるかもしれない。

このケーススタディから「傲岸不遜な態度をとっていても看過されるぐらい多大な功績を残された方が謙遜することに意義がある」といった気付き・学びを得ることが出来る。

そして、世の中の人物を「多大な功績を残された人物」と「多大な功績を残されていない人物」の2つに分けた場合、悲しいかな、圧倒的に前者の方が数は少ないと僕は考えている。

これは「多大な功績」の基準をどこに置くのかで数字は変わってくるため、客観的観点ではなく、あくまでも主観的観点に基づいた考え方にはなるのだけれど、例えば「自分が全く興味関心の無い分野にもかかわらず存じている人」とした場合、やはり、割合でいうと、1%にも満たない、というのが実情ではないだろうか。

参考までに、僕の興味関心の有無で言うと、スポーツ分野ならば、例えば、サッカー。僕は断然、野球が好きなタイプなので、サッカーは、門外漢と言って良い。けれど、そんな僕でも、本田圭佑のことは知っている。

なお、余談ではあるが「本田圭佑」と書くと、サッカーではなく野球、埼玉西武ライオンズのピッチャーのことを思い出してしまうので、個人的には「本田圭佑」と「ケイスケ・ホンダ」とで、表記を変えた方が、僕にとっては分かり良いのだけれども。

ただ、この「名前の表記問題」に関しても『プロフェッショナルー仕事の流儀ー』において「プロフェッショナルとは、ケイスケ・ホンダのことである」などといった発言をしたらしい、みたいな話を、知人から小耳に挟んだことで「ケイスケ・ホンダ」という表記方法が、僕の中で定着したわけで。

こうやって考えていくと、サッカーに全く興味関心がないにもかかわらず、本田圭佑(ケイスケ・ホンダ)のことは存じているし、プチ情報的なものもいくつか聞いたことがあるよ、といったサッカー選手は、極めて稀なのだ。

そういった人物のことを「多大な功績を残された人物」と形容するのであれば、やはり、前述したように、1%にも満たないだろう、という結論に辿り着いてしまうわけだ。

この事実から、今回、僕が言いたいのは「一部の成功者の立ち居振る舞いを見て、上辺だけを取り繕うのではなくて、まずは結果を出さなあかんのや!」という、何とも身も蓋もない話である。

極論、100人中100人が認めざるを得ない功績を残していれば、多少、トガった発言をしたとしても「よくぞ言ってくれた」だとか「〇〇が言うと説得力ハンパない」などなど、少なからず賛同者があらわれるものだ、と僕は捉えている。あくまでも「極論」だと断った上で書いているので、悪しからず。

こういう状況を俯瞰した第三者が「教祖」だとか「信者」などとラベリングをして揶揄する光景もしばしば見受けられるが、僕に言わせれば「当人同士が楽しそうにやっているならそれが正解なんじゃないか」とも思うので、個人的には、あまり気にならないし、言われる側も、気にするだけ野暮かなぁ、とも思う。

なんだか、話テーマが「謙虚」から逸れて来た感も否めないので、最後にまとめ直して、今日は終えるとしようか。

コホン。

「多大な功績 × 謙遜」が最強の組み合わせなのは間違い無いが、現実問題「多大な功績 × 不遜」でも、それはそれで不問と処される部分もあるのは否めないので「謙遜な態度」のみにフォーカスする必要性も、それほど僕は感じない。

むしろ「功績0 × 謙遜」を組み合わせてしまうと、最弱どころか、卑屈な態度によって、周りにまで悪影響を及ぼしてしまう恐れもあるので、プラマイゼロ、むしろマイナス、といった状態にさえなりかねない。特に「私は『THE・意識高い系』である」といった自覚がある人はやりがちなので要注意。(あくまでも私見)

そんなことならば、いっそ「功績0 × 不遜」な方が、敵は作るだろうが、中には「お~、兄ちゃん(姉ちゃん)、威勢だけは良いねえ。気に入った!ウチに来ないかい?」などと、好印象を持ってくれるような物好きも現れたりするので「傲岸不遜だから絶対にダメ」と言い切れないのが、難しいところでもあり、面白いところでもあるのだ。

以上のことから「表面上の言葉だけを真似しよう」という行為は、僕の経験則を振り返ってみても、また、僕自身の実体験を振り返ってみても、あんまり良い結果は生まなかったなぁ、と思われるので、個人的にはオススメしない。

ただし「偉人の名言集」などに触れて見識を広めたことによってブレイクスルー出来た、といった話を聞くこともあるので、あくまでも「個人的にはオススメしないよ」と言っているだけなので、悪しからず。

このように、自分の発言に保険をかけまくってしまうのも、昔からの悪い癖だ。一向になおる気配がない。言ってしまえば、これも「行き過ぎた配慮は耳障り・目障りな言葉でしかない」と言えるのかもしれない。

最後に自虐ネタを投下して、今日はこの辺で。

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