死ぬのが怖い人へ (10)

前回、私が獲信をあきらめた後、本願疑惑心を取り去られた話を書きました(※第9話参照)。阿弥陀仏の本願を聞く時、どこにいても極楽浄土がすぐ隣にあることを知らされる身になったのです。


後日談

さて、他力によって疑蓋(本願疑惑心)を取り去られた私は、ご縁があった人々に阿弥陀仏の本願について話をするようになりました。

そうやっていてよく言われたのが「お坊さんになった方がいい」ということ。

これには戸惑いを覚えました。

というのも私はいわゆる宗教的な人間ではないからです。感情的に何かを信じることはせず、むしろ理詰めで考えるタイプ。だからお坊さんになりたいと考えたこともなかった。

ですが色んなご縁があって、西本願寺で僧籍を取得させていただきました。


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僧籍を取った当初は「お坊さんであることに意味はあるのだろうか?」と考えていました。

なぜなら私は若い頃、妙好人にあこがれて浄土真宗について調べ尽くしましたが、その過程で浄土真宗のお坊さんの実態も目の当たりにしたからです。

浄土真宗には修行が無いので、滝に打たれたり断食したりする必要はありません。短期間の合宿に参加するだけで僧籍は得られるのです。

そうやってお坊さんになった人の中には、素晴らしい人格者もいれば、外国に買春しにいくことを自慢するようなモラルの低い人もいます。その比率はお坊さんも一般人も変わらないように感じていました。

そのため私には「お坊さんも一般人も基本的に変わらない。違いは僧衣を着ているかいないかだけ」という認識があったのです。


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私も合宿に参加して僧籍を取りましたが、やはり中身は昔も今も変わらず、煩悩に振り回されている存在です。「私はお坊さんだぞ」と胸を張れるものは何もありません。また前述したように、お坊さんだからというだけで偉いとも思いません。

ですが・・・僧衣を着た私を見て「お坊さんだ」「話を聞いてみようかな」と思ってくださる人々がいる。僧衣を着ているだけで、興味を持っていただける。

これは今まで仏教を大切に守ってきた方々のおかげであり、僧衣にはその信頼が蓄積されているというわけです。

仏教的に見れば、私個人には何の美点もありません。しかし僧衣の持つ信頼によって、教えが広まることもあるのです。


布教とは何か?

お坊さんの役割といえば、すぐに思い浮かぶのが「布教」「教化」。仏の教えを人々にお伝えすることですね。

しかし私には、布教や教化という言葉がいまいちしっくり来ない時もあります。

どちらかというと「私が喜んでいるところをおすそ分けする」というのが正確な感じがします。

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俗っぽい例えですが、とてもおいしいケーキがあったとします。私はそのケーキを知っているので、みんなに「こっちにおいしいケーキがあるよ」と伝えたいわけです。

その時、興味を持ってこちらに来る人もあれば、来ない人もいるでしょう。

もし誰も来なかったとしても、私は「まあこんな時もあるよな」と思って、1人でケーキを食べるだけです。

同じように、私自身が喜んでいるからこそ「阿弥陀仏の本願を疑い無く聞ける世界があるよ」というのを、伝えたいと思っています。


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そもそも煩悩まみれの凡夫たちに念仏の救いを広めていく主体は、他力の働きです。

ですから「私が布教しているのだ」「私が教化しているんだ」というのは、他力の働きによる成果を自分の手柄として横取りすることになる、と感じるのです。

阿弥陀仏は休み無く衆生を救い続けていると説かれます。

私の知らないところから、また新しく他力信心の人が生まれてくるはずです。


これまでの活動

私はこれまで、ネット上では以下を作成しました。

・サイト『ゼロからわかる浄土真宗』
・note『死ぬのが怖い人へ』

それぞれ解説します。

まず『ゼロからわかる浄土真宗』ですが、ネット上だけで正統な浄土真宗を理解できるように10年以上前から企画して、2018年に公開しました。

ネットにこだわった理由は、教えの内容はネットで伝えることが可能だからです。さらに言えば、対面して話すよりも、文章や図で伝える方が正確に理解される場合は多い。

ちなみにページ数が多いと読むのに時間がかかるし、最初に読んだものを忘れてしまうこともあるでしょうから、要点を10ページにまとめました。

10ページ読んで理解すれば、他力信心の世界が理解できるように作ってあります。


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浄土真宗の教えに対して「簡単」「やさしい」というイメージを持っている人は多いようです。

しかし本当は誤解しやすい点がたくさんあります。そのため『浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない』という本を書いたお坊さんもいるほど。つまり僧侶でも混乱するような教えなのです。

私は青春時代に浄土真宗について調べ始め、正統な教えを把握するだけで数年かかりました。

というのも浄土真宗のお坊さんは数が多く、現在では5万人以上いるとされています。そのため色んな主張をする僧侶がいて、出版された本の数も多く、一体どれが正統な教えなのか見分けがつかなかったのです。

しかし実は、色んな主張があるのというのは本来おかしな話なのです。

なぜなら他力信心の定義は1つだけで、それは「仏願の生起本末を聞いて疑いが無い」というもの。つまり本願疑惑心が無いということです。法然聖人も親鸞聖人も妙好人も、その世界に住んでいたのです。

その正統な他力信心について、図解入りの分かりやすい本が1冊あれば、それでよかったのですが・・・。

仕方ないので、色んなお坊さんの本を読んでみて、理解できないところを詳しい人に質問していくしかありませんでした。
 
しかし質問をくり返して理解していくというのは、とても効率が悪く時間がかかりました。押さえるべきキーワード(疑蓋や仏願の生起本末など)について一冊の本にまとめてあれば、回り道しなくて済んだのに・・・と思ったものです。


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しかし聴聞の要点を理解できるようにまとめるのは、難しいことなのかもしれません。いまだに私は、そういう体系的に書かれた本やサイトに出会ったことがありません。
 
そこで私は、若き日の自分が読みたかったものを作ったわけです。

あの頃の私と同じように、浄土真宗がよく分からずに困っている人々がいます。最近はそんな人々から質問を受けることも増えてきました。子供から老人まで年齢はさまざま。

浄土真宗に興味を持っている人のために、無駄な遠回りをしなくていいように作ったのがこのサイトです。理解を助けるため、むずかしい言葉にはwikipediaやネット辞書へのリンクをつけました。

どうぞ目を通していただきたいと思います。

サイト『ゼロからわかる浄土真宗』
http://amidabuddha18.com/


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そしてnote『死ぬのが怖い人へ』はこの文章のことです。


『ゼロからわかる浄土真宗』
だけでは具体性が足りないと感じたので、1つのサンプルとして私の実体験を書きました。


今後の活動

今後の活動としては、ネット上で法話のライブ中継をしようと考えています。

具体的にはツイッターのライブ機能を使います。ライブの日程は、私のツイッターアカウントにてお知らせいたします。
https://twitter.com/ryuun_kubo

なお法話の内容は、仏願の生起本末(※第6話参照)を話す予定です。

浄土真宗を知らない人がいきなり視聴しても意味が分からないと思いますので、この法話に興味がある人は、事前に『ゼロからわかる浄土真宗』を読んでおくことをオススメします。


インターネット時代を生きる私達

私はインターネットでつながることが重要だと考えています。

昔であれば、死後への不安を解決しようにも、よい本や先生に出会えずじまいで死んでしまう人もいたと考えられます。

しかし現代はネットが普及し、良質の情報が共有される時代です。死ぬのが怖い人には、その問題を解決するための情報が届くべきではないでしょうか。


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時代はどんどん便利になっています。

例えば江戸時代ならば、法話を聴聞するためには、歩いてお寺まで行く必要がありました。

それが車や電車や新幹線で行けるようになった。

さらに現代では、手元のスマホで法話が聴聞できるようになりました。

浄土真宗に興味がある人にとっても、自分の喜びを伝えたいと思っている僧侶にとっても、これを使わない手は無いと思います。


浄土真宗に興味を持っている人へ

浄土真宗の教えに興味がある人にとっては、まず正統な教えの要点をつかむことが必要になるでしょう。ここがズレていたら、いくら聴聞しても教えを聞き間違うことになるからです。

その後で「教えの内容は理解できたにも関わらず、救われたと思えない自分」と向き合うことになるかと思います。

妙好人たちも同じで、教えの内容は知的に理解できていたのに、なかなか他力信心が分からずに悩んでいた記録があります。

例えば因幡の源左は、18歳の時に父親と死に分かれ、その遺言である「親様(阿弥陀仏)をたのめ」という言葉から、聴聞に励むようになりました。『妙好人論集』(柳宗悦 著)には次のように書かれています。

彼が疑いの生活に入ったのは、彼が十八歳の時、父が急死したのと、死ぬ刹那「おらが死んだら親様をたのめ」と言い残したその言葉とが縁をなした。死とは何か、親様とは誰か。この二大疑問をひっさげて、彼は苦悶の道を辿り始めた。

さて、父親から「親様をたのめ」と遺言された源左は、どのように聴聞していったのでしょうか? 重要な示唆がありますので『妙好人 因幡の源左』(柳宗悦 著)より引用します。方言が多く読みにくいですが、じっくり味わってみてください。

親爺と一緒に昼まで稲刈しとったら親爺はふいに気分が悪ぃちって家に戻って寝さんしたが、その日の晩げにゃ死なんしたいな。

親爺は死なんす前に、
「おらが死んだら親様をたのめ」
ちってなぁ。

その時から死ぬるちゅうなぁ、どがんこったらぁか。親様ちゅうなぁ、どがんなむんだらぁか。

おらぁ不思議で、ごっついこの二つが苦になって、仕事がいっかな手につかいで、夜さも思案し昼も思案し、その年も暮れたいな。

翌年の春になってやっとこさ目が覚めて、一生懸命になって願正寺様に聞きに参ったり、そこらじゅう聞いてまわったいな。

お寺の御隠居さんにゃ、さいさい聞かしてもらい、長いことお世話になってやぁ。いっつも御隠居さんは
「源左、もう聞こえたなぁ、有難いなぁ」
って云ってごしなはっただけどやぁ、どがしても聞こえなんだいな。

御隠居さんにゃすまんし、しまいにゃしぶとい我が身がなさけなぁになり、投げちゃぁしまへず、じっとしちゃをられんで、どがぞして聞かして貰らはぁと思って、御本山に上ったいな。

御本山で有難い和上さんに御縁にあわしてもらったけど、どっかしても親心が知らしてもらえず、仕方がなぁて戻ったいな、おらぁ、ように困ってやぁ。

親の遺言により、源左は「死ぬとはどういうことか? 親様とは誰か?」という疑問を持ちました。

そしてお寺に質問したり、周りの人に聞いたりしました。

(※ちなみに他の妙好人の記録でも、聴聞で悩んでからお坊さんや同行(真宗の信者)たちに質問をくり返しています。私も同じ事をしましたが、お坊さんや同行に疑問をたずねていくのは、昔から当たり前に行われてきたことです)

源左はお寺の住職(ご隠居さん)に何度も話を聞いており、また本山まで行ってありがたい僧侶から話を聞いています。

このことから、源左はすでに教えの内容を(知識的には)理解していたと考えられます。

ですが直後に「どがしても聞こえなんだいな」とあります。

これは源左が「どうやっても疑い無く聞くことができない、他力信心が分からない」と苦悩していたことを表しています。

たとえ教えの内容を正しく把握したとしても、それで疑蓋が外されるわけではありません。

ここが聴聞をしていて苦しいところです。すぐに疑蓋を外される人はいいのですが・・・源左や私のように長いこと疑蓋が外されない場合は「(知識的には)分かっているけど、(他力が)分からない」という状態になります。

他の妙好人では、六連島のおかる同行がこの苦しみを詩にしています。

彼女も阿弥陀仏の本願を疑い無く聞信することができずに、

「こうも聞こえにゃ、聞かぬがましよ
 聞かにゃ苦労はすまいもの
 聞かにゃ苦労はすまいといえど、
 聞かにゃおちるし、聞きゃ苦労」

と、その心境を表現しました。


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まとめますと、浄土真宗の教えを聴聞していく順番としては、

1、教えの要点を理解する
2、阿弥陀仏の本願を疑い無く聞けない自分と向き合う

ということになると考えられます。

まず最短で「1、教えの要点を理解する」ためには、サイト『ゼロからわかる浄土真宗』note『死ぬのが怖い人へ』を読んでいただければ、要点がつかめるでしょう。

浄土真宗の教え自体は、一度要点をつかんでしまえば、それほど複雑なものではありません。

そして「2、阿弥陀仏の本願を疑い無く聞けない自分と向き合う」においては、法話をツイッターライブで中継する時に、視聴者からのコメントを受け付けます。

法話で何を聴聞するのかといえば、それは仏願の生起本末(※第6話参照)です。

そもそも獲信者も未信者も聴聞する内容は同じなのです。どちらも仏願の生起本末を聴聞するのですが、疑い無く聞ける人とそうでない人がいるということです。

前述したように「(知識的には)分かっているけど、(他力が)分からない」という状態で、悩んでいる人は多いもの。

この時、自分の思いにこだわってしまうと、教えを聞き間違うことになります。

第8話で書きましたが、たとえば「阿弥陀仏の本願はおとぎ話としか思えない」「だから私はまだ救われていないはずだ」といった自分の思いにこだわっていると、堂々巡りになるばかり。

そうではなくて、自分の思いはいったん横において「そういう思いを持っているあなたに、阿弥陀仏は何を誓っておられるのか?」ということを聞いていく必要があります。

そのために法話ライブでは「視聴者は仏願の生起本末を聴聞しながら自分の思いを観察する → それをコメントで書き込む」という形にする予定です。

これによって、いかに自分がこだわる必要の無いものを握りしめているのか、気づくきっかけになると考えられます。

また他の視聴者のコメントを読むことで、自分とは違う聞き方をしているなど、何か気づくことがあると思います。

法話ライブの日程はツイッター(https://twitter.com/ryuun_kubo)でお知らせしますので、興味のある方はどうぞ視聴してみてください。


この世が夢まぼろしだったとしても

よく「この世は夢のようなものだ」と言われます。

人間の脳の構造からいっても、夢などのイメージと現実を区別することはできません。だからこそ夢の中で火事に遭ったりすると、冷や汗をかきながら目を覚ますわけです。

私は「今この世に生きている」と思っているけれども、それはもしかしたら夢や妄想かもしれない。もしかしたら、培養液に浮かんだ脳みそに電気信号を送られているだけかもしれない。

実際に、哲学の思考実験では、下の図のような仮説(水槽の脳)もあります。

水槽の脳 wikipediaページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%A7%BD%E3%81%AE%E8%84%B3

しかし「それでも構わない」と言えるものを私は頂きました。

私の人生が幻のようにはかないものであっても、他力信心の上から見れば問題ではないのです。

なぜなら、今回の人生を最後に、仏に成らせていただくから。

他人が聞けば狂人のたわごとと思われるかもしれませんね。

でも、それでいいのです。


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みなさま、長い文章を読んでくださり、本当にありがとうございました。

『死ぬのが怖い人へ』はこの第10話で一区切りです。

次回からは補足として、浄土真宗に対する誤解を解いてさらに理解を深めるためのエッセイを、noteに投稿していく予定です。

南無阿弥陀仏


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→メール ryuun18amida@gmail.com
→ツイッター https://twitter.com/ryuun_kubo

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久保龍雲

死ぬのが怖い人へ

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