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本阿弥光悦という人  五島美術館編【吉田五十八】



マルチアーティストと紹介されたりする人・本阿弥光悦ほんあみ こうえつ(1558-1637)。前回の本法寺・光悦寺編のつづきです。

光悦作や伝光悦作とか彼の手掛けたモノ達は、各地のミュージアムで目にする機会があります。過去に「光悦 桃山の古典(クラシック)」と銘打った特別展が五島美術館でありました。随分古い話で2013年のこと。自分の経験では、光悦を網羅時に捉えた展示はこの時だけ。
ところが2024年1月から東京国立博物館で「本阿弥光悦の大宇宙」という特別展が開催予定だと。たぶん見に行くだろうというコトで記憶の整理を。

(参考)東京国立博物館 2024年1月-3月
見に行かねば!




五島美術館

東京都世田谷区上野毛3-9-25



五島美術館は関東の私鉄大手・東急電鉄の元会長五島慶太ごとう けいた(1882-1959)の構想により設立され、1960年に開館した私立美術館。五島さんは東急グループを築いた人。「強盗慶太」と物騒なアダ名をお持ちですが、鉄道黎明期に合併・買収を重ねて巨大企業群へと育てた剛腕によるものでしょう。
建物は昭和の雰囲気が感じられます。2011年大東急記念文庫と合併し、美術館は2012年にリニューアル。五島慶太が蒐集した美術品をベースに美術館は国宝5件、重要文化財50件をふくむ約5,000件、大東急記念文庫は国宝3件、重要文化財33件をふくむ約25,000件の古美術品・古文書を所蔵。所蔵する国宝「源氏物語絵巻」(阿波蜂須賀家伝来)はよく知られています。


美術館入口 寝殿造がモチーフらしい
庭園側から 柱がポイントか?

寝殿造りの意匠を取り入れた設計は吉田五十八よしだ いそや(1894-1974)によるもの。吉田は伝統的な数寄屋建築をモダンに解釈・発展させた人。印象としてはアップデートされた綺麗さび?
吉田は大和文華館(奈良県奈良市)、猪俣邸(東京都世田谷区)、歌舞伎座第3期(東京都中央区)、東山旧岸邸(静岡県御殿場市)等を手掛けています。また彼の作品リストには著名人の住宅が目立ちます。

金沢城三十間長屋のような大和文華館(右上)
開口部の大きな成城のお金持ちの邸宅、猪俣邸(右下)
吉田五十八さん(猪俣邸展示室のパネルから:左上)
歌舞伎座第3期模型(歌舞伎座資料コーナー:左下)
「昭和の妖怪」と呼ばれた元総理大臣の邸宅、東山岸邸。
孫で2022年に非業の死を遂げたあの方も来ていたらしい。


美術館は多摩川左岸の河岸段丘上にあり、このあたりの地形は国分寺崖線と呼ばれています。国分寺崖線は東京都立川市から東京都大田区まで30kmほど続き、場所により高低差は20mにもなります。つまり見晴らしの良いポイントが多い。高低差のある庭園を散策するのも良し。美術館の横を東急大井町線が走っていますが、その線路に架かるのは「富士見橋」。ビルに挟まれていますが天気が良ければ富士山が見えます。富士見スポットは庭園内にも。美術館周辺は閑静な住宅街。

富士見橋からビルの谷間に遠く富士山
庭園入り口  お迎えのあの方はどなた?
茶室もあり ただし通常非公開
ゾウが2頭 背が平らなのは座れる?
庭園からの富士山もビルの谷間

さて本題の光悦展




光悦 桃山の古典 2013


「光悦 桃山の古典」展 チラシ
2013年10月-12月 五島美術館

本阿弥光悦とは

近衛信伊、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と称された書の名人。芸術性にあふれた楽茶碗の作り手。大胆な意匠で「光悦蒔絵」とも称される漆工品の制作を指導した人物。慶長後半から元和にかけて、京都の嵯峨で出版された美しい装訂の木版による「嵯峨本」を出版した人。・・・・・華麗な意匠で知られる「琳派」の開祖に位置づけられている。

光悦展 図録から抜粋
「光悦 桃山の古典」図録  絶版
出版:五島美術館 2013年 240ページ
編集:五島美術館 大東急記念文庫

光悦は茶の湯を古田織部ふるた おりべ(1543-1615)や織田有楽おだ うらく(1547-1621、本名・長益、織田信長の弟)から学んでいます。また加賀前田家から200石の扶持を、徳川家康からは鷹峯の地(光悦村)を与えられるなど武家との関係も深い。

特別展当時の写真はない(五島美術館内は基本撮影禁止)ので、東京国立博物館所蔵の光悦作品をいくつか。


色紙三十六歌仙図屏風 東京国立博物館蔵
左隻、右隻それぞれ18枚 絵は光悦筆
書は光悦10枚、小堀遠州10枚、烏丸光広5枚
松花堂昭乗5枚、近衛信尹6枚とされる
寛永の三筆そろい踏みの豪華キャストによる合作
伝本阿弥光悦筆 扇面流図屏風 東京国立博物館蔵
「蛇籠が描かれた銀地の流れに宗達風下絵に光悦流で和歌の書かれた扇が舞う」と
光悦でも宗達でもないかもという解説が面白い。金屏風より落ち着いていて好み
加賀前田家臣 富治部左殿宛 書状 東京国立博物館蔵
前田利家や丹羽長秀(共に織田信長家臣)の名前が。
光悦が前田利家に「金沢に着いたよ」と知らせる手紙らしい。
読めません。図録にも掲載
蓮下絵百人一首和歌巻断簡 東京国立博物館蔵
下絵は俵屋宗達とされる。こちらは慈円の句
図録にはサントリー美術館、楽美術館、個人蔵の5幅を掲載。トーハク蔵は未掲載

特別展では光悦茶碗がずらりと並び壮観でした。ただし頂点の「不二山」は不在。東京国立博物館の「本阿弥光悦の大宇宙」でも欠席のようなので、見たい人は長野に行くしかないようです。書についてはほとんど読めない上にうまいかどうかも判断できない自分が悲しい。

図録は書跡、陶芸、漆芸、出版と光悦の事績をまとめ、論考も充実したモノ。現状では本阿弥光悦図録のベスト版か。かなりのページを割いていたのが本阿弥家の系譜。光悦自体まだ謎の部分が多いようで、系図を掘り下げると気になる事実が。




守護大名の血筋?

本阿弥光悦の父・光二は片岡治太夫宗春の子で、本阿弥家7代当主の婿養子となります。しかし7代目に実子が生まれたため別家を立てることに。そして片岡治太夫は多賀高忠の子とされています。つまり多賀高忠が光悦の曽祖父。だいたいの光悦の紹介ではこのあたりで止まります。

ここから町衆ではなく室町幕府の話になります。
多賀高忠たが たかただ(1425-1486)は近江京極家の重臣で室町幕府の侍所所司代を務め、応仁の乱にも名前が出てくるような人です。幕府の中枢の人。すごく気になって高忠の父を調べてみると京極高数だと。京極って! どの京極?

京極高数(きょうごく たかかず:?-1441)
近江・出雲など6か国の守護を歴任した京極高詮の2男。・・・ 1421年に侍所頭人に任ぜられ、幕政に関わるとともに山城守護にも補任され・・・・・ 将軍・足利義教の寵愛を受けていた高数が京極宗家の家督を継ぎ、出雲、隠岐、飛騨の守護に補任された。ただし持清が後継となったとする説もある。

室町時代人物事典:水野大樹:新紀元社

そして高数が将軍・義教に供奉した宴で発生した嘉吉の乱では、管領の細川持之が逃げ出した後も、乱を起こした赤松勢と勇敢に戦い、討ち死にしている室町幕府の主要キャストの1人。大物すぎるご先祖。

京極氏は宇多天皇の血筋で宇多源氏や近江源氏、佐々木源氏と呼ばれます。佐々木源氏は鎌倉幕府や室町幕府創業時に活躍し、時流を見る目も確かだった名門武家。室町期には高い家格を持った四識家の1つに。
一族の歴代では足利尊氏を支えた京極高氏(京極道誉、佐々木道誉とも)がよく知られています。武辺一辺倒ではなく、連歌や茶の湯といった文化面においても素養があり、派手、華美、奇抜な事を好み、婆沙羅バサラ大名と呼ばれました。


図録の論考では本阿弥家や片岡家など複数の系図によって、光悦に至る家系と本阿弥家の家督継承が考証されています。結論として高忠は光二の祖父ではなく、さらに上の世代だろうと。
いずれにせよ光悦が上層町衆どころか上級武家であった多賀高忠の血統を継承しているのは間違いないようです。

人の人格や能力形成には血筋というよりは、生まれ育った環境が大きな影響を与えると考えます。本阿弥氏、多賀氏、京極氏と経済的に恵まれ政治にも関わり、学問や芸術に触れやすい環境にあった血筋が、光悦という人を形成したのではないかと。

そんなコトを妄想するきっかけとなった2013年の光悦展でした。
そして2024年「本阿弥光悦の大宇宙」でのさらなる発見を期待しています。


おわり

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