漂流と就職

この記事に触発されて自分もこの一年の経緯や流れを書こうと思った。

 自分は現在とある映画会社で働いている。旧五社の流れを汲むような大手でも、既に名を挙げた独立プロとかでもない。本当に設立したばかりの波に揺れる磯船のような小さな会社である。
 自分はこの会社の設立者に「沖縄に戻ってくるなら手伝ってくださいよ」というような口説き文句で誘われた。その設立者は自分より一つ年下の、しかしどうにも不思議な魅力のある映画作家で、もともと彼が撮った作品の劇場用パンフレットの翻訳を手伝った縁もあり、特に何も考えず二つ返事で了承した。2018年の11月のことである。
 私はその頃、台湾の大学院に席を置き、台湾文学について学んでいた。修論に向けて台湾の具体詩(コンクリート・ポエトリー)について調べながら、住んでいた台中市の隅々を散歩していた。なので特に就職活動もせず、漠然と「沖縄に帰りさえすれば喰いつなげる」と思い込んでいた私にとってその話は渡りに船だった。そう言えば大学四年次の頃もやっぱり就職活動には縁遠かった。教育学部のちょっと変わったゼミに所属していた自分が恩師に一応訊いた就職のアドバイスは「もうだいたい興味があること自分でわかってるんじゃないですか」だった。その助言正解。

世間師

 宮本常一の読者にとってはお馴染みの世間師。興味本位でふらふら土地を渡り歩く、原義としてのノマドワーカー。例えば現在の職業に当てはめてしまえば船員、土木作業員、チンピラなどに分類されてしまう。そういう職を転々としつつも多少はその土地に何かを還元しようとする人々は今でも現場や日雇いに出れば普通にいる。今も昔も世間師が着く職は就活を要さない。私が「沖縄に帰りさえすれば喰いつなげる」と思い込めるのは、世間師の価値観に共感をもっているからだろうか。どだい父方の祖父など世間師の類である。夏は雇われの漁師で、冬は本州に出稼ぎ。その金で家を建て、わずかな山を残し、私が生まれてすぐに亡くなった。一方母方の祖父は馬喰で牛馬を養えるだけの土地があり、さらに優秀な息子たちが自前で船を持ち、集落を仕切れるぐらいになった。母は常々土地を持てばいいことがあると幼い私に教え込んだ。しかし、大学を出なさいとも言った。そのためには故郷を捨てることになる、という予感が常にあった。これは戦後ではなく、平成の中頃の話である。
 そういう訳で私は20代の前半を沖縄で、後半を台湾で過ごした。しかし単にふらふらしては手持ち無沙汰なので、沖縄では大学に、台湾では大学院に通った。それぞれ美術と文学を一応の専攻とした。
 多少学びはしたが、それを職業にしようという気はなく、「芸は身を助ける」かもしれないから無いよりもマシ、ぐらいの心もちだった。実際、翻訳仕事は台湾生活の模糊を繋いでくれた。美術や映画の浅い知識も結果役にはたったが、やはり世間師くずれではキャリアパスを理論的にも経験談としても語れそうにない。

ドキュメンタリーを製作し、一方で配給もする

 ならばせめて仕事の内容ぐらいは書き留めておこう。私の所属する会社は映画の製作を行い、一方では海外の作品を買い付けて日本国内で配給する。その関連業務をほとんど自分たちで行う。製作は自社製作という形で原案から編集まで自分たちのコントロールで行うものと、共同製作という形で既に枠組みができた企画のプロデュースワークを他のチームと協力しながら行うものがある。自社製作はちょうど最新作『緑の牢獄』が完成し、年明けにはお披露目できると思う。
 また配給第一弾がようやく先週封切りした。『大海原のソングライン』という作品である。下が予告。

 映画が配給されるまで

 せっかくの機会なので配給にフォーカスして説明していきたいと思う。(製作はまだ公開してないから書けないこととかあるけど、配給は宣伝になるからね!)
 まず『大海原のソングライン』は2019年春先に配給の話が浮かんできた。浮かんできた、というのは「配給をやったらいいのではないか」というアイデアが浮かんできたのだ。なんせ我々は先の設立者含め映画を作ったことはあるが配給したことはなかった。しかし作っているからこそピッチング(資金集めコンペ的なやつ)や映画祭で面白いけど紹介されてない作品も目の当たりにしてきた。我々は沖縄と台湾をベースにしている会社なので、まずは配給第一弾もそのカラーに基づいてやってみることに。そこで白羽の矢が立ったのが『大海原のソングライン』だった。当時はまだ邦題なんて決まっていないので原題の《小島大歌》もしくは《small island, big song》と呼んでいた。
 夏頃には『島々の歌』という仮題をつけて都内の映画館に連絡し、アポが取れたところには東京へ行って売り込んだ。ここまでで作業としては
・作品資料作り(日本語化など含む)
・紹介映像(まだ予告編ではない)
・各方面連絡
が発生する。分担として自分は作品資料作りや連絡、あと初期版の字幕も作ったりした。

 秋に国内の映画祭で上映するチャンスが来たので監督とプロデューサー、出演ミュージシャンをゲストとして日本に呼んだ。このアテンドや映画祭上映用に字幕の修正や売り込み文句を考えたりしてた。ちなみに夏も秋も一方では撮影や製作資金集めなどに奔走していた。
・ゲスト来日とそのアテンド
・映画祭上映に向けた準備(字幕から映画祭向けの紹介文など)

 2019年12月、ここから本格的な宣伝作戦を始めようと意気込みだす。そもそもコロナ順延がなければゴールデンウィークに封切りの予定だったのでだいぶギリギリのタイミング。チラシやポスター、予告編用のキャッチコピーを考える中で、邦題も変えよう、という流れになる。確かに『島々の歌』は原題に比較的忠実だがどうにも引きが弱い、というのは命名した本人が一番感じていた。映画祭上映での反応なども踏まえて、キャッチコピーと一緒に結構考えました、ほんでこういう時には詩の勉強マジ役に立つよ!そして監督たちと話したり、プロダクションノートを読む中で「ソングライン」というキーワードが引っかかった。問題はどういうソングラインか、ということだ。最初は安直に島々のソングライン、としたが違う。そんな中、いろんな人に協力やアイデアを求めたり、割とビジュアルもコピーも紛糾しつつあった。紛糾から逃れるようにチャドウィグの『ソングライン』を読み、本部町の海洋文化館に行く途中で思いついた候補の中で一番しっくりきたのが「大海原」の三文字。そして私は一時力尽き、疫病が流行り、そんでようやく8月1日より公開でございます。延期期間中に突撃宣伝作戦と疫病の第二波がやってきて再びてんやわんや!?とまぁ宣伝編は単独で記事にできる波乱万丈かつチラシの訂正など地道な作業なのでまた別の機会で。

 こんな弊社は沖縄チームが映画作家とカメラマンと世間師に加えて四月から加入した敏腕リサーチャーさん、台湾チームは映画作家とプロデューサーの計六名で今日も元気に映画と向き合っております。



※これnoteに書いたのは親しい人でも自分がいまどんな仕事しているのか全然伝わってなかったので、せっかくだからまとめてみようとしたらこうなりました。だいぶ省略したし(例えば「買い付け」とか「劇場とのやり取り」とかnote的な需要があるのはそこら辺の詳細でしょう)、この一年間が情報処理しきれずバグるぐらい色々あったのでまだ書こうにも整理しきれていない。。。あと仕事、研究、趣味が混同しつつあるのは良くない傾向だと思いつつ、しかしながらこの興味あることがグチャッと渾然一体になってる感じこそ理想のライフプランではあります。。。

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